んとするものだからだ。プレハノフの所謂ある作品の気分の高さ、感情の強さ、換言すれば人を動かす力は、芸術作品の芸術性であつて、同時に芸術的価値である。それは複合物であつても純粋物であつてもかまはないのだ。新奇な言葉をつくり出すことは、決して問題を解決する所以ではない。「人間の行為には倫理性はあるが倫理価値はない」といふやうな主張は、マルクス主義からソフイズムへの復帰以外の何物でもない。
次に同氏の「芸術運動に於ける前衛性と大衆性」は、最近にあらはれたこの種の論文の中で最もブリリアントなものであつた。
勝本氏のこの論文に於ける主張の中心問題は「プロレタリア芸術の確立のための運動」と「大衆化のための運動」とを一応分離し、更にこの両者は一つの方向に向つて統一されるといふ点にある。この考へ方によつて、私は明かに私の多くの批判者よりもより高度の認識に達してゐることを示してゐる。氏は、いま現在ある文学作品をその外部にあらはれた相貌によつて分類[#「分類」に傍点]した。分類といふ方法はたしかに現象を理解するに必要欠くべからざる方法ではある。だが、この外部的分類は徹底的に現象を理解せしめる方法ではない。徹底的理解に達するためには、外部的分類でなしに、内部的分析の方法によらねばならぬ。私は勝本氏が外部から分類したことを、内部からその価値構成要素を分析して、政治的[#「政治的」は底本では「政治団」]価値と芸術的価値といふ二つの価値の結合をマルクス主義文学の中に認めたのであつた。勝本氏が作品の相貌によつて分つたことを、私は作品の機能によつて分つたのである。
従つて氏が、私の所謂マルクス主義文学[#「マルクス主義文学」に傍点]を、「昨年の三月十五日事件以後の政治的情勢に結びついた大衆化の過程に於けるプロレタリア的アヂ・プロ文学運動の場合を主として指したに違ひない」といふのは、あまりに問題を局限しすぎてゐる。私は意識的マルクス主義の文学全体について言つてゐるのだ。強ひて日附を示すなら、日本では目的意識の理論が文学に導入された時から以後の文学作品をさしてゐるのだ。氏等の所謂「プロレタリア文学確立のための運動」をも政治的ヘゲモニイのもとにたつ意識的運動であると解してゐるのだ。この点では私の見解は、勝本氏よりも寧ろ、鹿地、中野両氏に近い。これはナツプに於いてプロレタリア芸術確立の運動が政治的に
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