ど一致してゐる。私はかつて、「文学の本質について」といふ論文の中で、文学の本質は経験的なものであつて、経験的なものをすべて取り去つてしまへば、本質は消滅してしまふことを説明した。勝本氏は私が経験的なものと言つたのを「側面」といふ言葉で言ひあらはしてゐるだけであつて論旨は殆んど符合してゐる。
 だが、芸術は社会現象のすべてゞはない。その一部分でしかない。しかも一部分といふのは量的な一部分といふ意味ではなくて、質的に異つた一部分である。芸術も科学も社会的な一つの機能をもつてゐるが、それは同じ機能ではない。両者はひとしく社会に有用なものであり、従つて社会的価値をもつてゐるのであるが、その価値は別箇の価値である。これはちやうど水素も窒素もラヂウムも物質であるが、これ等の元素はそれ/″\別箇の性質をもつてゐるのと同じである。もとよりこれ等の性質が、究極に於いてヘリウム核の周囲に排列された電子の数によつて決定されるやうに、各種の社会的価値は、一つの社会的価値に帰することはできる。だがそのために、芸術的価値がその特殊性を全く失ふだらうか。
 また芸術価値は純粋なものでなくて、多くのものゝ複合によつて形成されるものであり、この複合物を全部とり去ればあとには何も残らなくなることも真実である。同様に商業価値も、倫理価値も、政治価値も純粋なものではない。しかし、重要なのはさういふ側面を数へ上げることではなくてその複合される各要素の種類や、比例の差によつて、即ち複合状態によつて芸術的価値と政治的価値とが区別されることを知ることである。水の中にも硫酸の中にも酸素が含まれてゐるからといつて、両者が区別して考へられないことはない。大宅氏の言葉を借りると両者を独立の王国[#「独立の王国」に傍点]と見做すことが不合理とは言へない。
 勝本氏が芸術的価値の純粋性、先験性を否定してこれを複合的に、経験的に、社会的に考察されたことは、それ自身で正しいにかゝはらず、私の主張はそのために少しも手傷を負ふものではないのである。
 芸術性[#「芸術性」に傍点]と芸術的価値との区別についての蔵原惟人氏と勝本氏との考へ方は、全くの論理的遊戯でしかない。しかもこの遊戯は勝本氏の理論の一貫性を破綻せしめる危険な遊戯である。それは芸術性といふ神秘的なものを設定して、芸術的価値といふものを全く功利的なものとしてそれから区別せ
前へ 次へ
全23ページ中18ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
平林 初之輔 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング