でも田舎の小学校の先生などの間には見出されるであらうところのマルクス主義批評家の口吻のヂユプリケーシヨンである。こんな批難にまで答へてマルクス主義の闘争性を講釈しなければならぬなら、私は筆を折つてしまひたい位だ。
要するに大宅氏の批判は徹頭徹尾誤解若しくは曲解をもつて貫かれてゐるので、反駁は一行一行に加へなければならぬのだが、そんなことは、私にも、「新潮」編輯者にも、読者にも我慢のできないものであるから、私は「再吟味」の「再吟味」の「再吟味」を大宅氏に勧告して次に移るであらう。
六 勝本清一郎氏の主張
勝本清一郎氏の「新潮」六月号に発表された「芸術運動に於ける前衛性と大衆性」及び「芸術的価値の正体」は、少くも前者は、直接私の理論を対象として批判されたものではないが、非常に密接にそれに関連した問題が取り扱はれ、後者は殆んど専ら私の理論が対象とされてゐる。
この二つの論文に於ける勝本氏の私に対する批判は、小宮山氏や大宅氏のそれに比べて遥かに、理解が深められ、問題の中心に接近してをり、且つ多分に示唆的なものをもつてゐる。言はば小宮山氏は何んにも考へずに俄づくりの公式をもつて漫然と問題に向ひ、大宅氏は私の文章から、言葉だけを拾つて、問題そのものは氏自身の頭の中で組み合はせて、更にそれを壊して見せられたのであるが、勝本氏は問題の意味を正しく理解することにつとめられたといふことができよう。
先づ「芸術的価値の正体」の中に展開されてゐる氏の価値論は、結論としては正しいことを私は躊躇なく承認する。
『我々は芸術の芸術たる姿を政治的見地からの側面や、商業的見地からの側面やその他の各種[#「各種」に傍点]の側面やをすべて切り払つて、それから離れての「純粋」な方向に見ようとする態度の誤りであることを覚らなければならない。さういふ風にして行けば、芸術の、従つて芸術的価値の正体は、何もなくなつてしまふのである。……我々はさうした方向とは反対に各種の複雑な側面をもつ全的芸術現象をこそ芸術の姿として見、その内面に統一されてゐる各種の観念の複雑な全結合をこそ、そのまゝ芸術の内容として認め、あらゆる社会的条件と連合した社会的尺度によつての社会的価値をこそ、その芸術品の真の価値であると主張したいのである……』
これが大体に於いて氏の結論である。そしてこれは私の考へと殆ん
前へ
次へ
全23ページ中17ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
平林 初之輔 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング