規定されてゐるし、又さうされねばならぬことが証明してゐる。たゞことによると私が両氏と異つてゐるであらう点は、志賀直哉の作品にも中野重治の作品にも、歴史的価値ではない、アクチユアルな芸術的価値を認め、その芸術的価値はマルクス主義批評家の場合にも一応は取り上げられ、然る後、マルクス主義文学の政治的ヘゲモニイの故に、「涙をのんで」志賀氏の作品はすてられねばならぬと考へる点にある。ついでに言つておくが、大宅氏は私に対して、実際の作品批評の場合に私がどんな基準をとるかと詰問揶揄されたが、私は大体今述べたやうな基準をとるし、これは私がマルクス主義者でないとしても(実際、私は少なくともどんなマルクス主義団体の紀律にも服してゐないといふ点でマルクス主義者では決してないことを承認する。せい/″\マルクス主義の真実性を認めるといふ意味での同伴者でしかないことを認める。)凡ての進歩的批評の基準であると信ずる。たゞ或る作品のイデオロギイの稀薄である場合は芸術性のみを批評の対象とする場合もあり、その逆の場合には芸術性がすぐれてゐればゐる程、深刻に批判しなければならぬ場合があること、並びに私が理想として信じてゐることを文字通り実現する能力が私にないことは認める。批評と数学とはその点でちがふのだ。

         七 川口浩氏の理論的混乱

「戦旗」五月号に掲載されてゐる川口浩氏の「平林初之輔氏の所論その他」は、以上に私が述べた問題以外に何等重要な新しい問題を提起してゐないのだから、特別こゝに論評する必要はないのだが、たゞこの論文が、ナツプの機関紙に掲載されてをるといふ重要さのために一言しておく。
 先づ氏は『問題の焦点は、芸術作品の価値とは、社会的乃至政治的価値[#「社会的乃至政治的価値」に傍点]以外の何物でもないか、或はそれ以外に芸術的価値といふ特殊な価値が存在するかどうかといふ所にあるらしい』といふ甚だしく曖昧な問題のとらへ方をしてゐる。こゝで眼立つのは、社会的価値といふ一般的な価値と政治的価値といふ特殊な価値とが同義語に解されてゐる点だ。そして氏は芸術的価値といふものは成立しないとし、芸術の価値は、その社会的価値乃至政治的価値(乃至階級的価値)にのみありとし、しかもこの問題は既には一応解決されてゐる問題であるとされるのである。無論氏が主張されるやうに、奇妙な風に解決? されてゐたので
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