とは、文学や芸術が「マルクス主義の外に全然[#「全然」に傍点]独立してそれ自体の王国を形成してゐる」ことを示すものだと指摘するだけで、氏自身がこの事実を認めるのか拒むのかは遂にわからない。こゝで、全然[#「全然」に傍点]といふのは大宅氏の誇張だから省いて、いま大宅氏の用語法を借りて、「文学芸術がマルクス主義と独立の王国」であることを私は認めてよい。(尤もこの王国と他王国とは互に独立しながら頻繁に交通し影響を及ぼしあふのであるが)そしてその王国内には芸術そのもの若くは文学そのものに関する原理があることは私のかつて指摘した通りである。これは既に私がマルクス主義文学を文学[#「文学」に傍点]とマルクス主義[#「マルクス主義」に傍点]との二つの要素に分析したことから当然に導き出されることである。それ自身の原理をもたぬ二つのものなら二つでなく一つであつて、二つのものが区別される限り、二つはそれ/″\別の原理をもつてゐることは自明である。
さてマルクス主義文学作品に於けるこの二つの要素の結合関係を私は、政治的価値が芸術的価値に対して力をもつて[#「力をもつて」に傍点]、権威をもつて[#「権威をもつて」に傍点]ヘゲモニイを握るやうな具合に結合されてゐるのであるとした。これは芸術文学が政治闘争の用具となる必要はなく、さうでない文学芸術もあるといふ事実と、マルクス主義はプロレタリアの勝利のために文化の凡ての部分を階級的に武装しなければならぬといふ要請とが、マルクス主義文学といふ一つのものに具体化されるとき、当然にとる結合関係である。それは内面的、必然的関係ではなくて、言はゞ力による、意志による、権威による結合関係である。従つてこの結合関係は安定的でも永続的でもなく、政治闘争の終結とゝもに武装を解くのである。マルクス主義文学といふのはブルジヨアとプロレタリアとの階級戦線に武装してたつ文学であつて、武装をといたあとまでもマルクス主義文学と呼びつゞける必要はない。
尤も結合関係は、力で[#「力で」に傍点]、権威で[#「権威で」に傍点]結合するのだが、一たん結合したあとは一つの作品としての調和をもつことは、ちやうど、水の中へインキを混ぜることそのことは、言はゞ力で[#「力で」に傍点]、権威で[#「権威で」に傍点]混ぜられるのであつても、混合された液体中には水とインキとははなれ/″\になつ
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