義は社会に関する統一的理論であるから、マルクス主義の方法は分析的方法と相容れない方法であるかの如く考へてゐる点である。マルクスが資本主義社会の全機構の綜合的理解に達したのは商品の顕微鏡的分析から出発してのことであつたことなどは、大宅氏の理解の限度を越えてゐたのか、氏の注意の外に逸脱してゐたのだ。
 私はマルクス主義文学者を以上のやうに二つの要素に分析して、それ/″\の機能をのべ、この二つの要素は五十パーセントづゝの割合で機械的に加算されてゐるのではなくて、マルクス主義者の方が優位にたつてゐること、従つて、マルクス主義文学の作品の評価の場合にも、芸術的価値は政治的価値のへゲモニイのもとに立たしめねばならず、ある作品が芸術的にどんなにすぐれてゐても、マルクス主義文学の作品、一定の政治的任務をもつた作品としては、政治的価値の欠如のために、それは低く評価されねばならぬことを主張したのである。さうすることによりて、私はマルクス主義文学評価の基準を示した。(それが間違つてゐると否とは別として。)
 然るに大宅氏は、私の以上の主張は「マルクス主義に立脚した文芸理論を樹立することは全然不可能」であることを証明したものだと理解するのである。ついでに言つておくがマルクス主義文学といふものは既に存在するものである。存在するものゝ意味を説明するのが理論である。私はそれを説明するために先づ分析の道をとり、さうして分析によりて得られた二つの要素の結合関係をのべたのである。私は理論をたてたのであつて、理論を不可能だとしたのではない。たゞ不可能だとしたのは、マルクス主義文学のほかにも文学があるといふ事実[#「事実」に傍点]をわすれて、文学そのものがマルクス主義と密接不離の関係にあり、それ以外に文学はないかの如き事実を無視した理論なのである。
 私が「芸術や文学はマルクス主義から命令され、規定されて、政治的闘争の要具となる約束を少しももつてゐない」と言つたのは、現実の文学作品を一眼でも見たものには明白な事実であり、それだからこそマルクス主義文学がマルクス主義者によりて唱へられたのであるとすら言へるのだが、氏はこの事実を認めることはマルクス主義の危急存亡にでも関するかの如く考へられるらしい。私はこの事実を説明しようとしたのであるが、大宅氏には面倒くさい事実などはどうでもよいので、さういふ事実を認めるこ
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