矛盾を、マルクスは、小宮山氏が谷川氏の文章の中から引用した言葉によれば、次の如く言ひあらはしてゐる。
「困難はむしろそれら(希臘の美術や英雄詩)が我々に対してもなほ芸術的享楽を与へ一定の点に於いては、規範として、また到達し得ざる模範として通用することを理解する点に存する。」
マルクスは問題を正当に提出した。こゝでマルクスははつきりとギリシヤの芸術が我々に対してもなほ芸術的享楽を与へる[#「我々に対してもなほ芸術的享楽を与へる」に傍点]と言つてゐる。ところが小宮山氏にとつてはマルクスに困難であつたところのものが「容易に理解」できるのである。即ちマルクスが「我々に対しても[#「我々に対しても」に傍点]」と言つてゐるのは氏によればマルクスの理解力の不足のためであつて実は、それは単に歴史的に保存されてゐる趣味[#「歴史的に保存されてゐる趣味」に傍点]に過ぎないものとなるのである。
マルクスと小宮山明敏氏との差は、しかし、マルクスよりも小宮山氏がすぐれた芸術の理解者であるがためではなくて、マルクスは事実を解釈しようとしたが、小宮山氏は前掲論文のはじめの方で氏が規定した児戯に類する公式を事実におゝひかぶせようとしたといふ点にある。
そしてその刹那に氏の脆弱な公式は粉微塵に破砕してしまつたのである。公式は常に事実の中からひき出されなければならぬ。
五 大宅壮一氏の「再吟味」の対象
大宅壮一氏は「新潮」五月号で「マルクス主義文芸の自殺か暗殺か」といふ論文を発表され、それに『平林初之輔氏の「マルクス主義文学理論の再吟味」の再吟味』と傍題をつけてをられる。
ところで大宅氏はほんたうに私の再吟味を再吟味したか? 氏の再吟味の対象はほんたうに私の「再吟味」であつたかどうか? 不幸にして私はかういふ問題から出発しなければならぬ。
私はマルクス主義文学者といふ一人の人間を、マルクス主義者であつて且つ文学者である人といふ風に分析した。言ふまでもなくマルクス主義者にして文学者でない人もあり、文学者にしてマルクス主義者でない人もあるのだから、この分析は決して不当でないのみか、マルクス主義文学者をさうでない文学者から区別し、その特殊性を知るためには、この分析の過程を省略するわけにはゆかないのである。この場合にもその他の場合に於ても一貫してゐる大宅氏の誤謬は、マルクス主
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