になつて氏の期待とは全く反対の結論を生むことになるであらう。だが私は、これは氏の用語の不用意として、同時代といふのはほゞ同階級といふ意味に解すべきものだと勝手に変改しよう。だがさう変更しても氏の公式は猶ほ忽ち事実と衝突する。文学作品の評価は、決して全階級的に一致するものでもなければ、或る階級の作家の作品が、他の階級の読者に対して全的に魅力を喪失するものでない。ドストエフスキーもアレキサンドル・ヂユマも前時代のブルジヨア作家である。だが、ブルジヨア階級が全的にドストエフスキーを享受したといふ事実も、ヂユマを享受したといふ事実も私はきかぬ。それと同時にこれ等の作家がプロレタリア階級に対して根こそぎ魅力を失つたといふことも事実に反する。今日ロシアのプロレタリアによつてトルストイがなほ最も広く読まれてゐることは彼国の統計が示してゐる。
ところが私がブルジヨア作家の作品にもプロレタリア作品にも、そのすぐれた作品には魅力を感ずると言つたのは、氏によれば私一個人の趣味好尚であつて、個人の趣味によつて政治的生命の、従つて政治的価値のなくなつた作品に芸術的価値を認めるのはやゝ僣越的誇大であると氏は叱正されるのである。そしてこの矛盾? は私が『芸術的価値が個人によつて決定されるものであるか或は社会的に決定されるものであるかといふことを自ら判別することができるかの如くして、なほ、明確には判別することができなかつたところに』原因があると主張されるのだ。
これによつて氏は芸術的価値が社会的に決定されるといふ意味を全く理解してゐないことがわかる。或る芸術作品に価値を認めるのと認めないのとは全く個人的であつて、個人の趣味好尚がこの評価に重大な力をもつてゐることは氏の公式に都合がよいと悪いとに拘らず事実である。それにも拘らず芸術作品の価値が社会的に決定されると私たちがいふのは、さうした個々人の趣味好尚そのものが大体に於いて、社会的に決定されたものであるといふ意味に外ならないのである。同じ時代の同じ階級の人々の中にも島崎藤村を好む人もあり、田山花袋を好む人もあり、同じ藤村の作品の中でも、「家」を傑作とする人もあり、「新生」を傑作とする人もあるのはそのためだ。
私が政治的価値と芸術的価値といふ二つの価値を設定することによりて説明し、小宮山氏がそれは私の前時代的趣味好尚であるとして片附けてしまつた
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