と仮定する。そしてこれは、この二人の作家がそれ/″\その文学団体を統制する政治的な党の綱領に忠実である限り、仮定であるばかりでなく事実である。この「移籍」の場合にこの二人の作家の文学的活動に起つた変化[#「変化」に傍点]は何であるか? 明かに、二人の作家としてのタレントには何等の変化も起つてゐないであらう。若し起つてゐるとしても、それは附随的な変化に過ぎぬであらう。そして本質的な変化は二人の作品活動が、それ以来、一定の政治的目的を意識して営まれるといふ点に存することになるであらう。二人の作家の作品の芸術的価値は従つて殆んど増減しないに拘らず、それ等の作品は新たに政治的価値を獲得し、又は従来の作品のもつてゐた政治的価値と異つた政治的価値をもつて来るであらう。この二つを社会的価値[#「社会的価値」に傍点]といふ一つの価値に直ちに還元してしまふことのできないのは、次の例によりて明かである。
こゝに文学的タレントのすぐれたAといふ作家と文学的タレントの劣つたBといふ作家とが同時にマルキシストになつたとする。この場合前者は矢張りすぐれたマルクス主義作家になるであらうが、後者はマルキシストになつたといふ理由だけではすぐれたマルクス主義作家にはなれぬであらう。だが後者はいかに拙劣な作家であるにしてもマルクス主義作家であるといふ点にはかはりはない。といふのは彼は、マルクス主義政党の規定する紀律に服して、一定の目的を意識して作品行動を営んでゐるからである。
そこで私たちは、マルクス主義作家をしてマルクス主義作家たらしむるものは、政治的なものであるが、彼をすぐれた作家たらしめたり、拙劣な作家たらしめたりするものは、芸術的なタレントであるといふ重要な結論に到達する。
ところが、「芸術的価値」は社会的価値であるといふ、わかりきつた説を繰り返すことに忙しい「一元論者」たちは、この明々白々たる事実を無視し、現実にある芸術的価値を頭の中でのみ抹消して、私の「二元論」を撃破し得たと称するのである。そしてまるで「芸術的価値」が社会的価値であることさへ証明すれば私の理論が成立しないかのやうにしふるのである。
三 芸術的価値は独自性をもたぬか?
私は「政治的価値と芸術的価値」の中で、「これ(芸術的価値)を、私は神秘的な先験的なものだとは解してゐない。それは社会的[#「社会的
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