って来た。「瀬川秀太郎《せがわひでたろう》」という活字は、すぐに私の心を自然に対する親しみから、人間に対する親しみへ引き戻した。私は三日の間、食事の時に宿の女中とお座なりの言葉を交すだけだったので、人間の肉声に渇していたのである。ことに、学校を出てから、この附近に小さい病院を開業している開業医でありながら、どこか神秘思想家の面影をそなえた瀬川は、此の際私の渇を医するには最も好ましい話相手であった。今度の事件が起ってからも彼とは一二度あっているのだ。私はチャブ台の前に端座して、来客を待っていた。
「浅野という男が死んだね」
 瀬川は一わたり久闊《きゅうかつ》の挨拶がすんでから、急に話頭を転換して言った。私には浅野という男が誰のことかとみには思い出せなかったので、
「はあ……」
 とわかったような、わからぬような生返事をしていた。瀬川は衣嚢から一枚の東京新聞をとりだして、「静岡版」のところをひろげて一つの記事を指し示した。「浅野社長自殺す」というみだし[#「みだし」に傍点]で、浅野護謨会社社長が、ひきつづく事業の失敗のために会社を解散し、その後修善寺の新井旅館に隠棲していたが、昨夜、家人の
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