な嫌疑者でも出ない限り、彼が証拠不充分で釈放されるのぞみはないと言ってよい。ただ裁判所が一番困っているのは兇器が見つからぬことだ。被告も兇器のことは知らぬ存ぜぬでおしとおしていることだ。
 然らば万一、被告が法律上無罪になったとしたら彼は救われるかというと、一たんかくも無惨に破壊された人間の生活というものは容易に繕われるものではない。被告はこれまで、呪いとか、憎みとか、不平とかいうものを知らなんだ。そのためにこそ彼は七十五円の月収で未来の幸福を空想し、この空想が現在の生活を幸福にしていたのである。ところが、今度の事件によって、彼の頭には、不正に対する呪いと憎悪とが深刻にきざまれたに相違ない。それに、浅野合資会社は、この事件のあったすぐあとで破産している。仮に彼が釈放されても生活の本拠が既になくなっているのだ。人間が多過ぎて困る不景気な今の世の中に、殺人犯の嫌疑を受けた人間を雇い入れるような好奇心をもっている資本家は一人だってありはしない。世間の人の眼には、いくら無罪にきまっても、一たん収監された人間には、どうしても黒い影がつきまとって見えるものだ。アナトール・フランスのかいたクランクビ
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