確定的な事実のように思われて来る。
彼は身体をはげしくゆすぶって、此の忌わしい考えを振り払おうとした。
今頃女房はどうしているだろう。自分がこんな不名誉なところに、こんな見苦しいざまをしていることを知ったらどうだろう。自分は何も悪いことをしたおぼえはないように思う。が女房はそれを信じてくれるだろうか。それとも彼女は、自分を悪人だと信じきって、愛想をつかして逃げ出していはしないだろうか? 自分が刑事につかまった時に顔を見せなかったのはどうもおかしい。あの時もう既に逃げたあとだったかも知れぬ。
彼はまた恐ろしいものを振り払うように身体をゆすぶって妄想を追いやろうとしたが、数時間前に、幸福な考が泉のように湧いて出たように、今は、凡《あら》ゆるいまわしい想像が、工場の煙突から吐き出される煤煙《ばいえん》のように、むらむらととぐろを巻いて、彼の意識全体にひろがってゆくのであった。
それでも彼は誰をもうらまなかった。うらもうにもうらむ相手がなかったのである。警官は理由なしに臣民を拘引するわけはない。然らば如何なる理由で自分を拘引したのだろう。わからぬ。全くわからぬ。明かに無法だ。無茶だ。だが誰が一体自分に無法を加えているのだろう? 彼は、できるだけ冷静に自分の周囲を反省して見た。
妻は勿論論外だ。さりとて、護謨会社の一事務員である自分には、怪しむべき交友もない。社は忠実につとめている。社長は自分が忠実にはたらくことを知って並々ならぬ好意を示している。工場へは出入しないから、職工とは別に交渉はない。事務員はほかに四人いるが、みんな自分をすいている。小使は社中で自分に一番したしんでいるし、自分も彼には親切にしてやっている。給仕に至っては、自分は他の事務員のようにこきつかわないで、友達同然につきあっている。そのほかには、自分に交渉のある人間は世界中に両親のほかにはないといってもよい。こんな平和な、安穏な環境に生きている自分に、一体警察|沙汰《ざた》になるような事件の渦中に巻きこまれる可能性があるだろうか?
全身はぞくぞく寒い。頭はうずく。縄が両腕に喰い入ってぴりぴり痛む。頭には旋風が吹いているようで何が何やらさっぱりわからぬ。彼は、この奇怪極まる立場にいることが次第に腹立たしくなって来た。一体彼等は自分をどうしようというのだろう。どうにでもしてくれ。一刻もはやくどうにか始
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