る。雲は折々その山の頂からかけて一面に濃く中腹までも垂れ下って過ぎて行く、一簇《ひとむら》また一簇、その度に寒さがじっと身に沁みる。八月の中旬だというのに、山の中で蝉の声一つしない。林の樹も動かない。立ち止って耳を澄すと、岩角に突裂される雲の音が聞えるような気がする。雷鳥が一羽不意に林の中から飛び出した。
雲は次第に低くなって来た。道はまた細くなって、樅の樹の白く立枯れした林の中を行く、砕けた骨のように立っているその尖端に雲が引っかかり、裂けて、幾条にも細くなり、また集って、黙って四方に手を伸ばし、圧しつけるようにして通って行く。
皆《み》な黙ってしまった。咳一つしても雲へ響き、何か眠っている者の眼を醒《さま》し、荒れ出されてはたまらないような気がする。――森然とした中をただ黙って通って行く。
雲の中を道は自ら曲って、立枯の林の中から深い谿の上へ出た。谷からの風に雲はぱっと吹き払われた。
「ああ、やっと信州の山かな。」と言いながら老爺は道の曲り角へまた腰を卸《おろ》した。「あすこに見えるのが焼山でさあ、そら、信州の山はやっぱり大きいね、この辺まで来ると、気がせいせいする、へえ、こ
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