し抜けに、え。」と幕の端をちょっと引いて吹きつける雨に顔を背《そむ》けながら訊《き》くと、馭者はちょっと振り返って、
「何に探偵でさあ。」
「探偵? 何の探偵だえ。」
「何に、つい二、三日前にね、山の中で林務官を殺して逃げた奴があるでね、其奴《そいつ》が何でも坊様の風《ふう》をして逃げたって事だで、其奴を探すんずらい。」
 馭者は度々此様な事に逢うのか、別に気にも留めていないようだ。雨はまた一《ひと》しきり烈しく降る。その降り灑《そそ》ぐ音、峰から流れ落ちて来る水の音、雷鳴はまだ止まない。車中の者は身を縮めて晴れるのを待つばかり。話しすら存分には出来ない。宮越、原野、上田などは雨中に過ぎた。福島の町に入ろうとする手前で雨は晴れた。夕日が遠い山の頂を射て藍青の峰が微《ほのか》に匂う。福島は川を挟み山を負うた心地よい町である。林務官殺しの話は此処にも聞えていた。福島に一泊。

 福島から御嶽の頂上まで十里の間、その半ばは王滝川の渓流に沿うて溯《さかのぼ》るのである。この山中の路は登り下りの坂で、松木林、雑木林、あるいは碧湍《へきたん》の岸を伝い、あるいは深淵を瞰下《みおろ》して行く。五人十人あるいは二十人三十人、白衣道者の往来するのに逢わないことはない。桑原から沢渡へ越す所で一回王滝川を渡る。橋は一方少し坂になっている処から橡《とち》、欅《けやき》、※[#「木+無」、第3水準1−86−12]《ぶな》などの巨樹の繁茂している急峻な山の中腹に向って架《か》けられてあるのだ。橋の下は水流は静かであるが、如何《いか》にも深そうだ。この橋を渡ると深林の中の径《みち》となる。小暗く立ち繁った巨樹の根が道を横切っていて躓《つまず》きがちである。林を出抜けると草原、崩越を越えて山に沿い暫《しばら》く王滝川を遠く脚下に見て行く。山また山が重って、その間を川は眠ったようにうねっている。何だか遠い世の姿でも見るような気がする。山を下りてまた一回王滝川を渡って王滝の村となる。御嶽の第一合目である。
 王滝から田の原(六合目)まで登る間は、一合目ごとに小屋が出来ていて宿泊も出来る。松林が尽き、雑木林が次第になくなって、※[#「木+無」、第3水準1−86−12]《ぶな》類の旧い苔蒸した林となる。雨雲が覆い被さって来て、三合目あたりから遂に雨となった。林の中はただ狭霧と雨とのみ、雨中を鳥の声がする、
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