らとなく水中に沈んでゐるその巨樹を少しづつ切り上げて、その寺の境内にはそれらの木で一宇[#「一宇」は底本では「一字」]の堂を建てゝあるとの事である。
諏訪湖には信玄の石棺が沈められてゐるといふ傳説が一時傳つてゐた。それは明かな虚構であるにしても、鐘が淵に巨鐘の沈んでゐることは今でも信じられてゐる。何處の湖水にでも、何か水中に祕密を藏してゐない事はない。迷信の作り出して來る傳説であらうとも、史實の傳へる遺跡であらうとも、水は靜かな表面を見せて、少しもその祕密を現はさうとはしない。
冬季には、この湖水も諏訪湖と同じく凍りついて、氷上を渡ることが出來る。厚いときは二三尺にも餘ると、若者が話してくれた。
湖の東の方にあつて、逃げゆく霧の中から斑尾山《まだらをやま》が眞正面に見え出して來た。信越の國境を形づくる山の一つである。振り返つて見ると、妙高、黒姫、飯繩《いひづな》の三山が、これも霧の中から徐に姿を見せだした。
私は船をかへして岸の方へ向ふ事にした。信越の境に跨るこの三山の雄大な景色を、ぢつと眺めて居たくなつたからである。上へ/\と逃げて行く霧は、山の中腹から頂にかけて、次第に空へまでも擴がつて、山に近い空は薄灰色にぼかされて一帶にどんよりしてゐる。
妙高は稍々右の方に當つて、峯が重り合つて奇怪な姿を見せてゐる。黒姫《くろひめ》は眞正面に雄大な壓倒するやうな勢で、上から見下してゐる。飯繩は左へよつて右肩からおろして來る一線を裾長く曳いてゐる。
高原地といふ感じをこの三山の連立してゐる地くらゐ、明かに與へる場所は他にない。富士の裾野でも、私達は廣い平野の中へ立つてゐるやうな感じはするが、自分等のゐる處が高い場所であるとは感じない。八ヶ嶽の麓には高原の感じは十分ある。けれども此の三山の裾のやうに、閉鎖せられ、瞰下せられ、サーカスへ入れられた馬のやうに、四方から山といふ巨人に見下されてゐるといふ感じはない。サーカスの中の馬の眼には、人達の塊團《かたまり》が恐ろしく見えるであらう。私達が、これ等の山の麓へ立つてゐるときは、如何にも自分等の小さなことが思はれる。明るい寂しい、空氣の澄んだ中で、丁度壜の中へ入れられた蟲が、人間の眼の働きを恐れるやうに、私達はこの明るい透徹した高原の大氣の中で、一種の恐怖を感じて身の周圍を見廻したくなる。
靜かな湖上から眺めやつた三山の姿は、所謂日本アルプスのやうな、連嶺の重苦しさはなく、山に向ふといふ感じを最も明かに與へて呉れる。空中をおろして來る太いなだらかな線は、裾野の中へ走り込んで、この三山の麓では、その線の先きが互に交叉してゐる。私は子供の時分からいつもその線をぢつと見つめてゐると、何ものかが此の線上へ姿を現はして自分を呼んで居るやうな、その中にその者は幾つもの數に殖えて、その線上を下へ駈け降つたり、駈け昇つたりしてゐるやうな氣がした。また或時は、何人かがその肩を越して向うへ消えて行つたやうな、その人は一度越えた背を見せると、いくら呼んでも返辭をしないやうな氣がして、堪らなくなつたことがあつた。
幾度見ても黒姫は、いつも同じやうで、しかも面目を改めて、私の前に嚴しく聳えてゐる。連嶺《れんれい》の亙り續いてゐる頂にばかり目を馳せてゐた私達が、初めて一山の美しき姿を仰ぐことの出來たのもこの山であつた。そして越後の海を初めて見て泣きたいばかりに心の締つた記憶と共に、何年たつても忘られないのはこの山の美しい姿であつた。しかもこの山は富士山のやうに全く轉《まろ》び出たやうに孤立してゐるのではない。妙高、戸隱、飯綱の諸山は相呼應して、嚴として高原の奧に空を劃して立つてゐる。
けれど私は、この山ばかりではない。何の山に向つてでもさうであるが、長く曳いてゐるその線上を辿つて頂上まで登つて見たいといふやうな感じはしたことがなかつた。寧ろそれに縋つて見たい、父親の膝に縋りつくやうに縋つて見たい心持が起つた。またある時は、その線上を登るのではなくして下つて見たい、あのなだらかな線上を滑り降りて見たい、何處までも降りられる處まで、走つて行かれる處まで走つて見たいといふ心持がした。私は山をば仰いで見るけれど、それを形づくる線上へ眼を走らせる時は、いつも上から下へ視線を走らせてゐた。それは私一人の經驗かも知れない。下から線を上へ辿るとき、私には一種の苦しさが伴つて來る。山は盛り上がつたのかも知れないが、それを圍む線は少くも上から一條に、また一呼吸に畫《か》き下されたのだといふ感じがいつもされた。
兎に角、この三山の私に與へてくれたものは、常住の姿であつた。不斷の生命の流れであつた。安心して自分の思つてゐることを、考へてゐることを、感じてゐることを、纏めて見ることの出來る感じであつた。この感じが私には何よりも尊
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