れたその聲は、祕めた歡樂をうたふやうに、低い平原國を追はれたものが、山の中へ來て思ふまゝの自由を享樂してゐるやうに、何人をも憚らず唄つてゐる。
 霧の薄れて行く林の中から、蝉の聲がまた聞え出した。迷つてゐる者に道を教へるやうに、日中が近寄つて來ることを告げるやうに、身をゆすぶり、木をゆすぶり、林をゆすぶつて、立ちこめる霧を追ひやるやうに鳴き出した。
 蘆のこんもり群立つてゐる姿が處々に見えだした。水溜が次第に近寄つて來たことを思はせる。その中からけたたましく行々子《よしきり》の聲が騷ぎ立てる。何ものかの警告を與へるやうに、今まで默つてゐたものが不意に目を醒ましたやうに。
 今までは默々として動き※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つてゐた霧が、天地を我もの顏に領してゐたのだが、今度は一つ一つ聲を立てゝ、飛び※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]るものの生命が目を醒まして來た。
 先きの方に、山の裾が見え出して、その裾をめぐつて、曇つた鏡の面《おもて》のやうに、水面がぼんやり霧の中から浮んで見える。山々の間に入り込んで、彼處にも此處にも、光の無い水が見える。けれど水の上は餘所よりも明るい。樹林のこんもり茂つた島の形も見える。小高い途が少しづつ降りはじめて、野尻の村へ入つて行つた。比處にも昔の宿驛の跡が殘つて居た。店家があり、舊い大きな家があり、それが大方皆戸を閉ぢて居る。日は少しづつ光を増して來た。湖面は少しづつその光を照り返して、周圍の緑がきら/\輝き出した。私は急いで家と家との間から、稻田へ出て、その畔の小徑を湖水の岸まで歩いて行つた。
 湖に向ふ者の心の靜けさ。自分が何處をどう歩いて來たかも忘れて、突然その岸へ連れて來られたもののやうな氣がする。波の靜けさ、伸びやかさが心を靜めてくれる。波は柔かい手で撫でてくれるやうな氣がする。ぴつしや、ぴつしや、岸へ忍び寄るその音が樂しい囁きとなつて耳から胸へ、胸から體躯全體へ輕く行き亙る。淺い水の中から岸へつゞいて一面に生えてゐる淺緑の蘆の葉が光を反し、人の魂をその中へ吸ひ込む。その中に包まれて立つてゐる者の心は、緑の光となつて四方へ漂うて行く。湖上の霧は低く迷つて、山の間へ奧深く人を誘ふ。
 心の引きしめられる心持、固く脣を結んで見張る心持、それは海の與へてくれる命である。湖の岸へ來て立つてゐる時、人の心はなごみ、靜まり、輕い柔しい微笑が脣邊《しんぺん》に漂ふ。霧をくゞつて來る水の忍び寄る柔《やさ》しい響、私はそれを耳にして暫く默つて水面を見つめて立つてゐた。
 岸に近い宿屋から船を一艘仕立てゝ貰つて、湖上を周ることにした。
「こんな處にこんな池があるといふことが、東京までも知れて居るんですかね。」
 そんな事を言ひながら、一人の若者が櫓を押しながら船を進めて行つた。辨天の祠《ほこら》のある島には杉だの松だのが一面に立つてゐて、石の階段が水際から奧深く次第に高く導いてゐた。その奧には辨天の祠が在つて、四抱へ以上もある杉の老木が電火に打たれて立つてゐた。島を繞つて四方に湖水が開けてゐる。周圍四里近いこの湖水は、幾ら高い所に立つても一望に見果てがつかない。山脚の間々を繞つて入り込んでゐるので、或處は廣く、或處は狹く、周圍にも途がついてゐない。湖を極めるには船に頼るより仕方がない。湖上には日の光が縞を織つて、殆んど微動すら見せない。水の面は明るく、暗く、照り渡つてゐる。
 島からまた船に乘つて、誘はれるやうに奧へ奧へと入つて行つた。
 何處の湖水にでもロマンスはある。この湖の成立は知らないけれど、若者の語るところでは一種の谿湖らしい。山麓の谿間に自づと水が溜つて、その谿間には巨樹の立つてゐるままで水に浸され、檜や、杉が、水中深く白骨のやうになつて、立枯れしてゐるといふことである。その巨木の立枯れしてゐる中へ、銅《あかがね》の船が一艘沈んでゐる。その船は、謙信の智將|宇佐美貞行《うさみさだゆき》が、謙信の爲めに謀つて、謙信の姉聟|長尾政景《ながをまさかげ》の謀反を未然に防ぐために、二人して湖水に船を浮べ、湖上の樅《もみ》ヶ|崎《さき》といふ所まで出た時に、水夫に命じ船底へ穴を開けさせ、政景の身を擁して、二人とも船と共に水中に沈んでしまつた。その船だといふ。それは事實であらう。その後幾度となくその船を引き上げようと企てた者もあつた。最近一二年前にもこれを企てゝ失敗に終つた者がある。船のあるのは事實だけれど、引き上げることは困難である。水が冷たいのと巨木の間に挾まれてゐるのと、泥の膠着《かうちやく》してゐるのとで上げられない。
 二人の死骸すら遂に上げられずにしまつた。纔《わづか》に彼等が着けてゐた具足の端を水中から切り取つて、近くの寺の境内に埋めて、墓を建てたとの事である。幾百年前か
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