いものであつた。自分の尊敬してゐる友人の前へ、有らゆる自分の姿を、深く心に祕めてゐる考へを、安心して打開けることの出來るやうに、私は山に向つてゐるとき、常は忘られてゐる心の底の流れが、自由に流れ出すのを感ずる。自分の持つてゐるものの總てが殘らず響を立てゝ表面へ現はれるのを覺える。これが私の全體の生活でなくて何であらう。私の全體の生命でなくて何であらう。
深い悦びが、生の悦びが體躯《からだ》全體に漲つて來る。私の體躯の血潮が有らゆる力を盡して、順潮にめぐつてゐる。それが狂ふやうに躍るのではなく、今にも血を吐きはしまいかと思はれるやうに心臟が鼓動するのではなく、脈搏は大樣に、力強く波打つて、身體全體がほてつて來る。心の活動が寸分の隙もなく充實して來る。何故喧騷の中で、群集の中で、臆病な人間が、この自然の前へ來た時、十分の活力を得られるであらうか。何故、私達人間は友人の前に居る時だけ、戀人と向ひ合つて居る時だけ、樂しい自由な、流れるやうな心持が味はれるのであらう。
私がそんな事を思つてゐる間に、いつか船は蘆の生えてゐる淺瀬の上へ、ばさ/\入つて來た。と眼の前に蘆の葉の薄緑が一連《ひとつら》に輝いて見え出した。私は水にひたした濡れ手拭を取つて、船の中へ立つた。若者はもう水の中へ飛びこんで、肩で船尾《とも》の方を押しながら、蘆の發生してゐる中の船小屋の方へ、船を進めて行つた。私はこの小屋へ船の入らないうちに、蘆の根元へ飛び降りた。
稻田の畦の小徑を宿屋まで歸つて來た。湖面は日を照り返して、周圍の雜木林の中から蝉の聲と、鶯の聲とが聞えて居るばかり。その他には、何處か遠くの方で人聲がして居るやうではあるけれど判らない。明るくて、涼しい眞夏の晝、山中の湖水の岸は、總てがひつそりしてゐた。身を動かすにも荒い動作をしたくないやうな氣がする。
私はその家に泊つて、二三日讀書でもして居ようかと思つた。それ程靜けさが私の心を捉へてしまつた。けれど、また先き/″\の事を思ふとぢつとして居られないやうな氣がして、十一時頃にその家を出た。
野尻村は信濃の最北の村で、私の今歩いてゐる北國街道が、小さな峠を登つて下りると、其處の谿間に關川が流れて、その橋を渡ると、越後の國である。
國境に近い村には一種の感じが漂つてゐる。その村の人々も他處で見られない一種の感じを抱いてゐる。一種の郷土の誇りといつたやうな感じが國境を間にして、兩側の村人の胸に明らかに湛へられている。それでも彼等は互に交通してゐる。姻戚の關係を結んでゐる。一つの村の兒童は他の村の、他の國の川へ、峠を越して魚を漁りに行つてゐる。同じ國の村よりも、他國の村に近く住んでゐる彼等は、互に一種の誇りを持ちながら、互に愍《あはれ》み合ひ、助け合つて生活をしてゐる。
少しの坂路を登りつめると、草の生えた路が、なだらかに越後の國へ向いて降りて行く。路傍には、萩が咲き、葛の廣葉が風にひるがへる間から、紅紫の花が飜《こぼ》れる。落葉松の密林、白樺の疎林、杉が處々に孤立してゐて、下の谿間を見おろしてゐる。谿を隔てゝのテーブル、ランドの上には、黒姫の麓の高原には、黒い岩の散つて落ちてゐるのが、矮林《わいりん》が、藪だたみが、まだ消えやらない山頂の霧の影を寫して、白く光る處、薄暗く隈どる處、人間の住まない寂しい原野の姿を見せてゐる。
眞夏の晝を一人歩いて行く心持は如何にも明るい。日光を遮る砂塵もない山中の空氣は、眞上なる青い空から注ぎかける光を十分に吸ひ込んで、十分の明るさを見せて輝いてゐる。谿へ下る路が、崖の上へ來て、深い谿底を見おろして居るとき、日の光は音を立てゝ、その谷底へ流れ注ぐかと思はれる。路傍の林の簇葉《むらは》は、その光を漉して、青い光を樹根《きのね》へ投げ、林の奧は見透されないやうに、光と影が入り亂れて、不思議な思ひを起させる。
谷底の川音が全谿に反響を立てゝ、流れから起る風が、高い兩岸から身を伸ばし、手を延ばしてゐる蔓草や松の木の枝を搖り動かしてゐる。
山の肌を洗ひ、細い血管を傳つて、頂から麓へ、麓から谿間へ落ち込んで來る幾多の水、樹々の根元や、燒石の間へぷつ/\湧き出した小さな泉が、途を求め、藪をくぐつて、下へ/\と落ちて來た水、谿間の奧深くへ數年となく湛へてゐて、次第々々に周圍の草の根をひたし、立樹を枯らし、やがて、その白骨のやうな立枯れた巨木をも水底へ沈めてしまひ、上へ上へと登つて來て、山の出鼻を包み、岩角を沒し、林といふ林を眼にも附かないくらゐ徐々として下から呑んでしまひ、そして一樣に、何處をも平らかな水の野原としてしまつた湖水の水、その水も一箇所山の間に缺所を求めると、四里にも餘る一圓の水が俄に色めき立ち、騷ぎ立ち、殺氣を帶んで來て、爭つてその一箇所の方へ向つて急ぎ出す。長い間
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