沈默を守つて居たものの流動が始まる。湖水全體が一團となつて恐ろしい大きな渦紋《うづ》を卷くかと思はれる。恐ろしい唸り聲を立てるかと思はれる。周圍を繞らしてゐる崖を削り、突裂いても、脱れ出る途の方へ向ふ。見る/\その一箇所の缺け目は擴げられる。響きは四方へ反響して幾百年默してゐたものの爆聲を一時に立てる。水は郷土を求めて、廣い郷土を求めて、海へ向ふ。默してゐる水の不斷の盲動と、聲立てて走る水の小止みなき活動と、私は湖を出て、谿間の川へ下りる時、その不思議さを思はずには居られなかつた。
 關川の上流、妙高山の中腹に當る赤倉温泉から少し下つた處に、「地震の瀑」といふのがある。谿間を充たして來る水が、不意に懸崖の上へ滑り落されて、驚いて、幾丈となき其崖を飛び降りる處である。地軸を動かすやうな瀑布の響、それは水の驚きと喜びとを同時に見せる響である。一度動き出したなら瞬時も止まつて居らない水は、何物にも出逢つても、それを乘り越し、突き崩さずには居られない。默々として幾年の間でもそれ等の水は、機會を待つて領土を擴げてゐる。その領土の擴がり盡した時、其水は他へ向つて突出する。何物が其突出の力に抗することが出來得よう。水の不斷の凱歌が谿間には鳴り響いてゐる。
 國境の川を渡つて、田口の停車場まで半里程の間、次第に地勢が平かになつて、降るべき場所まで降つて、もうこれ以上は海へ走るより仕方がないと云ふ感じをさせる。
 今朝、山を包み、空を包み、林も、森も、野も、路も、村落をも沒してゐた執念《しつこ》い霧は、妙高の頂に逃げ集つてゐたが、正午を過ぎる頃から、又其頂を下りて、そろ/\山の中腹を包み、山を離れて廣く中空に浮び出で、麓の谿に怪しい影を落し、次第々々に里を目がけて降りて來た。そして廣い天地を包んでゐたのが、此一山に集合せしめられたので、色は一層濃くなり、黒くなつて、忽ちに山の姿を全く隱してしまつた。涼しい風が、雨氣を含んだ風が、其中から吹き下して來た。日の光も薄くなつて、川の水は輝かしさを消してしまつた。
 田口の停車場へは、山から降りて來たと思はれる、足支度をした人や、何處の登山口にでも見るやうな人を乘せて來た馬が二三頭、近くの立木に繋いであつた。そして温泉の香を匂はせた若い男達が、荒い皮膚をして、それでゐて生々とした光澤《つや》を見せて、酒にでも醉つたやうな顏をして、幾人も集つて來た。彼等は高田、直江津方面へ行く汽車を待つてゐた。
 汽車は來た。それ等の男も私も乘り込んだ。停車時間の短い驛だから、手早に乘つたと思つたが、乘ると直ぐに動き出した。それ等の男は窓から首を出して、頻りに山の話をしてゐた。温泉の話をしてゐた。
「旨い時に下りて來たもんぢや無えか、そら山は雨だ。途中であいつに出逢つたら大變だつたぜ。」
 大勢が一時に窓から山を見上げるやうにした。山を包んでゐた今朝の霧は、雲は、一層色が黒くなり、もの/\しくなつて、表面だけしか判らないけれども、確かに動いているのが判る。雨となつて、山腹へ注いでゐることが判る。雨氣を含んだ風が涼しく車窓へ打當つて來た。日が曇つてきた。
 明日の朝もまたあの霧が私を包むのであらうか。其時私は何處を歩いて居るのであらう。私は未だそれを定めて置かなかつた。



底本:「現代日本紀行文学全集 中部日本編」ほるぷ出版
   1976(昭和51)年8月1日初版発行
親本:「霧の旅」中興館
   1914(大正3)年6月
※「飯繩」と「飯綱」の混用は、底本のままです。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄
校正:鈴木厚司
2004年8月10日作成
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