直ぐそばの豊南《となみ》まで行くだ」
「田原まで何里ぐらゐあるの」
「まあ二里ぐれえなもんだ、なに雑作無えさ」
「赤羽根まで行けないかね」
「どうして、まだ五里もある」、と最一人《もひとり》の男が言つた。
「田原にや宿屋があるかね」
「あるとも、県道端の立派な町だ、何軒でもある」
 そこで、田原まで歩くことにした。
 同じ様な樫の樹の村、椿の村、麦畑の間と草原とを通つて行くと、後の方から、ほうい、ほういと掛声しながら馬を飛ばせて二三人づつ追ひ抜けて行つた。
 樫や椿の常緑の森は到る処にこんもりと茂つてゐた。その間をつなぎ合せる枯草の野は風に吹きまくられて乾いた土と共に草の葉が飛ぶ。坂路を登つて丘の上に出ると、不意に眼の下へぱつと海が展開した。深碧の波は処々白く破れて、暮近き冷たさが広いその水の面にも漂つてゐた。空と水とを劃する力強く引いた一線、目醒むるやうな心持になつて、私達はその線上に眼を走らせた。今朝見た薄白い雲はもう消えてしまつて、水と接する空は、薄黄色に光つてゐた。柔かなその光は見てゐる者の心をも溶かしてしまふ。
 連立つて来た若者の一群はもう先きへ行つてしまつた。私達もまた海と分れて森の中へはいつて行つた。道は西へ西へと向つて、小松の群立つてゐる赤土山へさしかゝつた。日の落ちかゝる遠い先きの方に、尾州の山が遙に見渡された。
 ちらつ、ちらつと、金色をした水が、遠く行く手に当つて閃くのが見える、「あゝ知多湾だ」。私は思はず振返つてまた後の方を見た。遠州灘は遠く空の下に紺青の色をこして線を引いてゐる。私達はいま寂しい半島の奥へ奥へと歩いて行つてゐるのであつた。
 もう日は沈んでしまつたが風は止まない。半島を吹き越えて海から海へと渡つて行く。磽角な赤土山はその風に吹かれて土煙が舞ひ起る。何処か谿の方で馬の嘶《いなな》き声はするけれど人影は見えない。山を下つて薄《すすき》の簇生してゐる細い川堤を通つて行くと、蝙蝠が薄の中から飛び出して、二三羽づつ夕空に舞つてゐる。薄い影が川堤の上へ長く伸びて、振り返つて見ると、七八日頃の月が冷たい光を空から投げてゐる。
 薄を刈り集めて塚にした蔭に、五六人の子供が、わい/\何か言つてゐた。「田原へは真直ぐに行けば好いか」と言葉をかけると、黙つて此方を見たきり何とも言はない、もう一度繰返して訊くと、その中の一人がこつくりをした。「何里ぐらゐある」といつたが、また黙つてゐる。「ええ、何里ぐらゐあるんだえ」と稍強くいふと、「知らねえ」と先の児が言つた。
 風に背を向けてマツチを擦つて煙草に吸ひ付けた。
 川土堤を一里も来たかと思ふと、向ふから荷を背負つた男が杖をつきながらやつて来た。路を訊くと、もう直ぐ先きが県道で、それから半里も行けば田原の町だと教えてくれた。
 間も無く電線の走つてゐるのが目にはいつた。白い県道の上を月の光の下に、コト/\音をさせながら荷馬車が通つて行く。私達はほつと息をついた。県道の右手に当つて低いけれど山が見える。
 田原の町には電燈が明るくついてゐて、賑かに人が往き来してゐた。草鞋をぬいで宿屋の二階で二人が向ひ合つた時は、生き更《かへ》つたやうな思ひがした。

 風と争つて一日の旅は頭を重くしてしまつた。うと/\眠つてゐると、夢の中で、流砂が降り、風が鳴つてゐた。暖かな半島の旅を予想して、外套だけは雨の用意に着て来たが、手袋も持たず、襯衣《しやつ》も薄くして来た。手の甲がピリ/\痛み出し、顔は皺ばつた。二階を降りるに足は重かつた。田原の町は渡辺華山の生地で、その記念碑もあると聞いたが、見に行く元気もなかつた。
 赤羽根へ出て「裏浜」を廻り、伊良湖村まで行くには八九里あると宿の番頭が来て話した。「何なら赤羽根まで人力でお出でになつては如何です、此処から四里の間は車がきゝますから」と付け加へた。
 人力車で赤羽根まで行くことにした。
 昨日ほどではないが、風が冷たく吹いてゐる。昨夜は月の光でぼんやりと、海の向ふかと思はれてゐた[#「思はれてゐた」は底本では「思はれてるた」]山影が田原の町の背後を繞らしてくつきり見えてゐる。知多湾の水は、その山の麓を切れ込んで、町の端まで蘆が生えた浅瀬になつてはいつて来てゐる。
 車は県道の上を一里ばかり南へ走つてから右へと折れ込んだ。背後から追掛けて来る風は、半島を吹き越えて海へ海へと落ち込んで行くのだ。道に沿うて新墾地の寂しさを見せてゐる板小舎や、掘返された草土や、まだ鎌のはいらない藪や、松の樹の切り倒されたのや、それ等が続いて居るばかり、雲雀一つ鳴いてゐない。処々に零《こぼ》したやうに立つてゐる赭ちやけた砂山と、ひらみつくやうに生えてゐる樟《くす》や樫の森などの続いてゐる果てなる空、南の方は天《そら》が鶏卵《たまご》色に光を帯びて、その下に跳つてゐる碧《みどり》の波の大きなるうねりを思はせる。陸地の果てといふ感じが強く胸をめぐる。
 海へ、海へ、はやく寂しいこんな荒地を抜け出して、その浜辺へ立つて見たい。狂ひ寄せる岸辺の波と、深い静かな物思はせる海と、力強いあの空と水とを劃する一線に深く眺め入つて見たい――車の上で話も出来ないので、私はこんな事を思つて行つた。
 二時間ばかりで赤羽根へ着いた。細い道の両側に二三軒づつある家が、大方戸を閉めて、人が居るとも解らない。何処かで火に当てゝ呉れる家はないかと思つて捜したが、何処にも見当らなかつた。重い足を引きずりながら先きへ先きへと歩いて行くと、一軒戸が開いて炉に火が燃えてゐた。二人は前後を考える暇もなく駈け込んで当てゝ貰つた。
「いつもこんなに寒いのかね」と訊くと、「いいえ、こんなことあ寒中でも御座んしねえ、珍らしいことだ」と云ひながら松の葉をどつさり炉へ投げ込んで呉れた。
「宿屋てのは、何処にあるんだね」
 火に手を翳しながらS君が訊いた。
「宿屋つて別にねえだが、わしらの処でも頼まれりや御泊めするだあね」
 茶を汲みながら[#「ながら」は底本では「ながな」]二十ばかりの男が言つた。二人は、顔を上げて家の中を見まはした。煤けた板戸の向ふでぶん/\絲を繰る手車の音が聞こえてゐた。炉の傍から二階へ登る階子段《はしごだん》がついてゐた。その段々の下の戸が開いて、食器のごた/\はいつて居るのが目についた。
「海は」と私は考へを転ずるやうに問ひかけた。
「海かね、海はすぐこの下で御座んす、此前の森の下が浜になつてゐるだね」
「漁はあるかね」
「いゝえ、かう荒れちや、からきし駄目だね。――これから何方へ行きなさるんだね」
「伊良湖へ行くんだがね、何里ぐらゐあるんだらう」
「伊良湖かね、五里ぐれえあるかね」「道は迷ひさうな処は無いかね」「道かね、道や何に、この前を真直ぐに行つて、なんでも左へ左へと海を見て行きや大丈夫だね、何なら浜へおりて、なるつたけ水際々々と歩いて行きや楽に行けるだね」
「こんな方を通る者はあんまり無いだらうな」。S君は口を入れた。
「さうさね。たいてい県道を福江《ふくえ》まで行くでね」
 二人はその家を出て樹下《こした》の道を辿つて行つた。樟の樹、椿の樹がこんもりとトンネルのやうに茂つて、細い路の先きの先きまで見透される。その路の上をちよこ/\歩いて二三人の人影が見えて来た。近づいて見ると、嫁入りの一群らしい人々であつた。黒紋付に絹の股引を穿いた仲人らしい男と、母親かと思はれる年恰好の老女と、外に二三人の荷担ぎの男がついて花嫁自身も手に何か提げて、頭髪飾《かみかざ》りをして歩いて行く。村の子供がぞろ/\後からついてその一行を賑やかにしてゐた。
 並木道を出抜けると、前は一面に開けて、空は明るい光に輝いてゐた。雲が白く靡いて陸地の果てを劃して居るやうに思はれる。ちよつと立ち止まつて耳を傾けると、ざぶん/\と波の寄せる音がする。
 風は次第に吹き止んで、日は暖くぽか/\と照つて来る。池尻、若見、土田《どた》などの小村を通つて和地《わぢ》まで来たが、何処でも昼飯を食べさせて呉れさうな家は一軒もない。鶏卵を呑んで昼飯に代へて、和地から浜辺へ降りて行つた。
 和地の浜は危い岩が乱立してゐる。波が烈しく打当つて来る。その間をくゞつて漁女《あま》等が、甘海苔を岩から掻き落してゐる。腰までも水へ浸して小さな籠へ根気に掻きためてゐる。牡蠣を砂から掘出して来て食べて見ろと云つて連《しき》りに勧めるが、気味が悪くて手が出ない。
「毒ぢやないかえ、え、あたり[#「あたり」に白丸傍点]やしないか」といふと、
「馬鹿言はつしやるな、あんべえ悪い時にや皆この牡蠣を食べるだ、それ、わんら[#「わんら」に白丸傍点]食へ」
 一人の小さな女の子に投げてやると、急いで拾つて、長く伸びた爪で肉を剥がしてつるりと口へ入れてしまつた。
 こは/″\ながら一つ貰つて、口へ入れて噛んだ。甘辛い鮮かな味はするけれど、気味は悪い。やうやく呑み込んだ。
 砂が深くて膝まで入りさうだ。きやつ、きやつと、何か大騒ぎをしながら波の中へはいつたり出たりしてゐる漁女《あま》達を後にして、岩の間を通つて行つた。白ちやけた貝殻の大きなのが処々に打上げられてゐる。
 小塩津《こしほづ》の浜まで十五町辿つて来ると、岩が無くなつて、砂浜が幅広く一帯につづいて日出《ひい》の絶端まで一望に見渡される。伊良湖の裏浜は最《も》う一里程で尽きるのだ。樅樹《もみのき》の太いのが打上げられてゐる上に腰を下して休むことにした。
 眼前に展開せられてゐる遠州灘、雲の峰はまだ起らないが、燻し銀のやうな色をした雲が水の果てにまろび光つてゐる。力強く引いてはあるが、柔かみのある空際の一線、午に近い日の光と紺青の海とを劃して、思ふまゝに伸びやかに走つてゐる。広くはあれど、小さい無数の変化を見せる水の面は、複雑果しない楽の音を聞くやうに、いかにも豊かな温かい感じを与へる。深いこの碧の水に抱かれて、何処へなりとも身を運んで行つて貰ひたい。波と共に踊りまはり、遊び戯れて、飽くことなき自在な生活を送りたい。
 私は、山頂を劃して来る、あのなだらかな、而も鋭く澄んだ一線に対するときは、身が引き締まり、乱れた心に統一を与へ、取り留めなき自分をはつきり引とゞめて、広い宇宙に自分の立つてゐる有り場を確かに見せて呉れて尊い悦ばしさを味ふ事が出来た。
 けれど、海へ向へば、平かな豊かなるこの海に向へば懐しさが湧いて、躍る胸を押へることが出来ない。固くいぢけて乾からびたやうな形骸の生活、それを脱して飽まで伸びやかな流れ溢れる生活を与へられる。孤疑し逡巡し、骸骨のやうな顔をして互に睨み合つて居るやうな自分の生活から、せめて少しの間でも脱れ出る事が出来る。疑へばこそ人も怪しい影に見える。影と影とが互に歯をむき出合つて、掴みかゝらんばかりに苦しい日頃の生活は、いまこの大きな流動して止まない海の面に対して立つ時に忘られてしまふ。崩れ流るゝ波の一つに我が影を刻んで遠くへ流してやりたい。その波の自在な響を胸にとゞめて、常住の響としたい。からみつき、纒ひつく土着の生活があさましい。流れてやまぬ、海の自在さが求めたい。
 流木の上に腰を下して私は黙つて海に見入つてゐた。S君も側に並んで腰を下してゐたが、同じく黙つて一語も発しない。
 私達のゐる背後は、一帯に砂の丘をなして、その蔭には樟や竹や樫の一列の森が自らの防潮の林をなしてゐる。その丘の間から牛を連れた男が出て来て、浜辺に牛を放して、自分だけは砂の上へ身を横にしてゐる。牛は波打際をのそのそ歩いてゐるが、波がざぶんと打寄せると、不意に飛び出して、陸地の方へ馳ける、がまた寄つて来て波を浴びてゐる。
 日出《ひい》の浜には子供等が集まつて焚火をしてゐた。船底に藻草のついたのを火に焼くのが如何にも面白さうなので、子供等はその火の周囲にわい/\云ひながら飛び廻つてゐた。
 日出の岬の海中には巨きな岩が三つばかり波を浴びて立つてゐた。その岩の傍を、掛け声をしながら十五六人の船頭が漁船を漕いで行つた。岬の絶端を向ふ側へ磯伝ひに廻れるかと子供等に聞くと、「どうだか」と
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