伊良湖の旅
吉江喬松

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)村櫛《むらくし》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)四五日前|篠島《しのじま》へ

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)大きな※[#「飮のへん+稻のつくり」、第4水準2−92−68]餅を

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ちぎれ/\に
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
−−

 北から吹く風が冷たく湖上を亙つて来た。浜名湖の波は白く一様に頭を上げて海の方へ逆押しに押し寄せる。
 四月の上旬で、空の雲はちぎれ/\に風に吹かれて四方の山へひらみ附いてゐる。明るい光が空を滑つて湖上に落ち、村櫛《むらくし》、白州、大崎の鼻が低く黒く真向ふに見えてゐる。
 新居《あらゐ》への渡船を待つて弁天島の橋際に立つてゐた。ギイギイ艫の音を立てゝ一艘の小船が橋の下へ湖水の方から逃げ込んで来た。
「新居へ行く船はまだ出ないかね」と声を掛けると、
「さうさね、今そこへ行つたばかりだがね、二時間ばかりは待たぢやなるめえよ」
「困つたな、何とか他に工夫は無いもんかな」と立つてゐた二人は顔を見合せた。
「一体何処へ行くんだね」と、船首《みよし》の方の男が、棹を立てながらいふ。
「なあに、伊良湖の方へ行くんだがね、新居よりほかに行く途はないかね」
 私は風に吹かれて思ふやうにならない地図を皺くちやにしながら、捜《さぐ》りを入れるやうに頭の上から言葉を投げた。二人の船頭は橋杭に船を繋いでゐたが、筒袖に股引をはいて、荒繩をしめてゐた方の男が、不意に飛び上つて来て、私に言つた。
「工風《くふう》の無えこともねえ、私等《わしら》どうせ遊んでゐるで、渡して上げずか。伊良湖なら新居へ行かずに、この先の浜へ着けりや好いだ」
「そりや好い。何処でも行けさへすりや結構だ、渡して呉れるか」
「ぢや、ちよつと待つて、おくんな」
 船に残つてゐた一人の男が、船から出て橋を渡つて何処かへ見えなくなつた。
 私は又地図を出して、行くさき/″\の様子を訊いた。船頭は太い指を地図の上に出して色々説明して呉れる。
「伊良湖十三里と云つてね、この先の浜伝ひに行きせえすりや、嫌でも行つちまうだ。さうさな、今夜赤羽根ぐれえまでは行けずかな」
「宿屋はあるかね」と、傍に立つてゐた、東京生れのS君が不安さうに口を入れた。
「宿屋つて、どうせ彼方《あつち》へ行つちやさう好い旅舎《やどや》なんかねえさ、泊るぐれえなことは出来るけえど」
「大丈夫だ、安心してゐたまへ。どんな処だつて好いぢやないか」
「さうもいかない」とS君はちらつと私の方を見て笑つて言つた。
 間もなく一人の男が帰つて来た。私達はその舟へ乗せられた。
 藻草と海苔《のり》粗朶《そだ》とが舟脚にからむ。横浪が高く右の方から打かゝつて来る。弁天島は黒い松の林に覆はれて湖水と海との間に浮んでゐる。昨夜遅く舞坂の停車場から東海道の松並木の間を、浜松から島へ帰る人を先きにして色々な話を聞きながら通つて来た。その男は宿屋の身内の者だとか言つて、雙方に便宜なやうな話をして聞かせた。道が曲つて、ぱつと眼の前へ浜名湖の夜景色《やけい》が浮び出た時は、何処か遠い国へでも連れて来られたやうな気がした。漁火の点々として浮んでゐるのと、闇の中に咽ぶやうに寄る波と、橋の向ふに薄白く見えてゐる旅館の壁と、瑞西《スイツル》の湖畔へでも連れ出されたやうな気がした。今朝見ると、明るい日の光の下に、それ等の旅館の裏二階の欄干や障子が松林の間からはつきり見えてゐる。
 島と湖水と、その背後に迫つてゐる木立の深い山々の上を遠く隔てゝ、一列の雪の峰が雲際《うんさい》に漂渺と浮んでゐる。湖を隔てゝ見る遠い山の影、猪苗代湖の飯豊山《いひでさん》を思はせる。
「船頭さん、あの白い山は何て山だね」
「あれかね、何でも信州の山だが、名は知らねえね」
 冷たい風はあの山の向ふから吹いて来るに違ひない。見やつたばかりでも皮膚に粟が出来る。私はまだ雪の消え尽くさない、高原地の黄に枯れた草原を思ひやらずには居られなかつた。花も咲かず、冷たい風がひとり、縦《ほしいまま》に吹き渡つてゐるのだ。
 船は横波を受けながら、一条の灰色した砂洲を左に見ながら遅く進んで行く。その一条の砂洲が長く延びて、海の波の打ち込んで来るのを防いでゐる。沖へ沖へと吹く風で、寄せ来る波も高くはない。その砂浜の上へ低くまろんで悲しい音を立てゝゐる。遠い沖の果てには薄白い雲の群が、もや/\湧き上つて、勢よく伸びるでもなく、消えるでもなく、地平線上にたゝなはつてゐる。
 船底は折り/\砂地へすいついて動かない。船頭は力を入れて無理やり棹で出した。砂洲と砂洲との切れ目は水が浅く流れて、打ち込んで来る海の波と打当つて、その度毎に両岸の砂がかけ落ちる。二人は外套の襟を立てゝ船の中に身を円くしてゐたが、その砂浜の一端へ船が乗りかけて行くと、勢好く立ち上つて、砂地へ飛び下りた。
 見渡すと眼前は一望の砂原だ。処々に小さな砂丘が出来て居て、その一つの蔭に十五六人の漁師等が網を引き合つて、修繕《つくろひ》をしてゐる。風が烈しく吹いてぱら/\、ぱら/\砂山から砂を吹き掛ける。「ほう、ほう」と云ひながら漁師等は、頸を縮めたり、手を振つたりして、その砂を振り払ふが、後から、しつきりなしに降りかゝる、
「ひどい砂だな、埋つて了ひさうだ」と、云ひながら一人の男は砂地から身を起して、一層近く砂山の下へ寄つて行つた。と、その時、ざあつと音がして、一群の砂が、勢好く砂丘の坂から崩れて来て、いま腰をおろした許りの男の上へ降り注いだ。
「やあ」と声を上げたが、見ると、その男は逃げ損ねて、腰から下と、右の半身とはその砂の下になつてしまつた。左手と頭とだけを動かして、抜け出ようとするが動けない。「出して呉れえ」と大声を挙げて呼んでゐる。
「見ろ、そんな処へ一人で行くせえだ、馬鹿」と、いひながら一人の男が立つて、その男の頸と左手へ手を掛けて、引き出した。右肩から下は一面の砂で、顔半分も砂がまみれ付いてゐる。「なんてざまだえ」と、皆笑つてゐる。その男は自分でも笑ひながら、右手の指でしきりに耳の砂を掘り出してゐた。
 砂塵の雨はしつきりなしに上から横から降りかゝつて来る。私達は風に背を向けながら横に歩いて行つた。ちよつと立ち止まると、前後左右を飛ぶ流砂の響、ひゆつ、ひゆつと寂しい鋭い音を立てゝ飛んで行く。見る/\足の爪先きに砂が高くなり、足を上げると、足跡が直ぐ半ば消えて細長い形になる。風に向かつては殆んど眼口が開かない。
 二人は小さな丘の蔭へ来て、頭だけ出てゐる黄枯《きながれ》た草の上へ腰をおろした。吹雪に出逢つた者のやうに、暫くの間、なりゆきに委せて外套の襟へ頸を埋めて眼を閉ぢてゐた。
 細かな目にもとまらないほどの無数の砂と砂とは、今空中に打ち合ひ擦れ合つて寂しい微妙な楽の音を立てゝゐる。何が寂しいといつて、この無数の流砂の立てる自然の楽の音ぐらゐ寂しい便りないものはなからう。ひゆつ、ひゆつと何ごとかを告げるやうに空中に鳴り渡る。夕闇の中に鳴く蝙蝠《かうもり》の声のやうに、或は頭の上に、或は肩越しに、或は膝のあたりに、耳もとに、或は足の下へ忍びより、一人の人間の居るのが何如にも邪魔さうに、何か不平をつぶやいてゐる。ひゆつ、ひゆつ、と鳴つてゐたのが、事ありげに大挙して海の方へ向つて行く。頭だけ出てゐる枯草は、圧せられて何者かの歩みゆく跡のやうに靡く。海の上まで行くと、砂はぷすう、ぷすう、と一定のリズムをなして水へ落ち込む。
 私達はまた立ち上つて、黙つて歩き出した。小さな藪や草叢が砂に埋まつてゐる。見上げると砂丘の頂に黒い人影が見える。仰いで眼を見張ると、石地蔵が赤い前垂を掛けて立つてゐるのであつた。
 落着いて海を眺める気にもなれなかつた。行く先きを見渡すと、遠く砂丘が連続してゐる。風を避け避けして砂丘の間を択んで小走りに走つてゐた。縦につゞく砂丘の間では砂の降るのも少く、草が高く伸びて、通つて来た後を振返つて見ると、二条の足跡が長くついてゐる。
 小高い丘の上へ出て遠く見渡すと、白ぢやけた砂浜に、浪が一せいに打寄せて来て、白く砕けてゐる。岬の果ての方は薄曇りがして、はつきり見極められない。伊良湖の十三里、まだ私達の行く先は遠いといふやうな感じが胸に起つて来た。
 単調な砂丘の間を歩いてゐる中に、頭も足も重くなつてしまつた。風は稍弱つて来たが、まだ吹き止みさうにも思はれない。少しの間海岸を離れて陸地続きに半島へはいつて行かうといふので、砂山を馳け上つて、右手の麦畑の間から浜名の村へ入つて行つた。
 湖水はまだ遠く波を見せて、雪の峰は微に空際《くうさい》に聳えてゐた。日は次第に暖かく、東海道の松並木は砂路の上へ黒く影を投げてゐた。藁靴の砂を払ひながら、私達は汐見坂を登つて、白須賀《しらすか》駅まで辿り着いた。

 白須賀の駅は北へ向つた坂路の上に立つてゐた。中仙道の駅々に見る荒廃の姿も見せず。軒並の商家は相当に繁《さか》えてゐた。
 町の中程の宿屋へ入つて、少し時刻には早いけれど、昼飯を喰べて行く事にした。中庭に沢山の庭石を並べて、姥桜の花が散つた後に青く小さな実が見えてゐた。棕櫚《しゆろ》の樹が二三木立つて、八角金盤《やつで》が広い手を伸ばして浄水鉢を抱くやうに取囲んでゐた。この駅の旧本陣らしい家の様子を見せて、欄間には渡辺華山の書などが掛けてあつた。
「これから先きには、まあこんな宿は無いでせうよ」
 S君はまたこんな事を言つた。
「いつそ此処で泊らうか」
「冗談ぢやない。さう今から予定を変へられて耐るもんぢやない」
「ぢや、赤羽根まで行つて、木賃宿へでも泊らうか」
「随分意地が悪いな」
「だつて仕方がないぢやないか」
 二人は砂地の疲れを十分癒して、ゆつくり休んでからその家を出かけた。
 東海道を伝つて、町の出端れから地図をたよりに右へ折れて、狭い小径を歩いて行つた。今日は小松原といふ村に競馬があつて、馬頭観世音の縁日があるといふので、この近在の村々の人は皆同じ道の上を賑やかに往き来してゐた。
 二川《ふたがわ》在から来たといふ男が先きに立つて、上細谷や下細谷などいふ村々を通り過ぎた。いづれも椿の大きな樹や、欅や樫の樹の茂つた村で、道の両側から椿の花はぽた/\落ちて、垣根に沿つて地面は真赤になつてゐた。
 路傍に伐り倒してあつた樫の木の木材の上へ腰をおろして休んでゐると、前を通る人が皆言葉をかけて、頭を下げて行つた。猟銃を肩にして獲物袋を垂《さ》げた五六人の遊猟者が村の奥の方から出て反対の方へ過ぎて行つた。何となく半島の奥を思はせて、私達は、互に顔を見合せてその一群の後を見送つた。
 道とも思へない、草藪の間や砂山の赤禿た上をよぢ登つて、小松原村といふ村へ来た。一面の人だかりで、露店が農家の軒先きに幾つも開かれてゐた。砂ぼこりを浴びた女の姿や、裾をまつ白にした女たちが、うよ/\集つて何か喰べてゐた。競馬のある処は、固く柵を結つて、中央の小松の丘に審判所が出来てゐた。砂塵を巻き上げる風の中を、白や黒の馬が半ば狂したやうに飛び廻つてゐた。
 半時間ばかりも見てゐるうちに、日が西に廻つて、冷たさがその光の中を爬《は》ふように広がつて来た。今夜の泊るべき当てもないので、先きの男と分れて、教へられた道を左へ左へと歩いて行つた。
 此方の方へも帰つて行く者が断え間なく続いてゐた。小松原からつゞいての村は高塚、その次ぎは伊古部《いこべ》、赤沢《あかざわ》などいふ村々であつた。もう五時近く、竹の林の靡く影が長く地に敷いて、早春の冷たさが身にしみて来る。何処にか泊る家はないかと思つて先きへ行く一群の若い男達に追ひすがつて訊いて見た。
「赤沢には有つたけえど、もうこの先きには無えね。いつそ田原まで行つちやどうだね、俺等も田原の
次へ
全3ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
吉江 喬松 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング