言つたきり取り合はない。仕方がないので、深い砂の中をその絶端の下まで辿つて行つた。
岬の鼻は幾十丈もある巨きな岩が、蛙の蹲《かがま》つて口を開いて居るやうに、太平洋の波浪に向つて、いくらでも波の寄せて来るのを引き受けるとやうに巌として構へてゐる。波は遠く寄せて来てこの岩の下に打り当り、湧き返り、深碧の色をして岩の胴腹を破つて突き込んでゐる。日の光が岩の罅隙《こげき》から洩れて水面へ落ちると、気味悪くギラ/\光つてゐる。ざぶんざぶんと後から後から押しよせて来る波で、先へ来たのは引くに引かれず、岩の中腹へ打ち上る。滝津瀬をなして、打上つた水はざあつと落ちかゝる。退潮の時を見計らつてすばやく馳け抜けたらば廻れないこともなささうだ。が、濡れてゐる岩に足を滑らせたらばそれが最後である。
引返して岬の頂へ登る径を求めると、砂の崩れ落ちるうねうねした小径が目にはいつた。その径の端にうす紫の蔓岬《つる》[#「蔓岬」はママ]の花がなよ/\と咲いてゐた。私はその花を採つて手帖の間へ挟[#「挟」は底本では「狭」]んだ。
小径を伝つて岬の頂へ出ると、ぱつとした明るい円やかな天地が目にはいつて来た。地平線は、丁度私達のゐるあたりを中心として描き出した孤線の一端のやうに、周囲を見渡して尽く海だ。只眼前の海上に、山かと思はれる大きな島が浮んでゐる。人家の白い壁が、日に輝いて見える。神島だ。私はこの島から出京《で》て来た一人の少年が、海軍の軍人になりたいといつて毎晩語学を習ひに通つて来た事を思ひ出した。丸顔の色の白い元気な少年であつた。二つの鮹《たこ》が帆となり船となつて海上を走つて行く話や、鮑《あはび》取りの漁女《あま》が盥に乳含児をのせて置いて、水底から潜り出て来ては、太い息を吹きながら、その盥の片端を押へてその児に乳を呑ませる話などをして呉れた。そんな事を思ひ出して、私はぢつと神島に見入つてゐた。
広い波の面は熨《の》すやうに平かで、只私達のゐる巌角の下だけに烈しい争闘が行はれ、恐ろしい叫喚の響きがしてゐるばかり、それも大きな眺めに圧せられて、柔かな一定のリズムをなした楽の音のやうに聞きなされる。振返つて見ると、今まで通つて来た和地・小塩津一帯の伊良湖の裏浦には、純白の房を巻きたぐつて、陸地の胸へ少しでも遠く手を伸ばさうとあせるやうに、波が勢好く寄せて来る。
二人は石楠花《しやくなげ》の藪や、小さな赤松の中を分けて右へ右へと進んで行つた。藪が杜絶えると、下は一面の白ぢやけた砂原で、日が直射して、ギラ/\光つてゐる。砂丘が急な傾斜をして絶えず上から砂を落してゐる。黄枯れた草が浜辺から一面に生えて、砂丘の下へ続いてゐる。荒凉たる砂浜だ。船が一艘水際から遠く引き上げられて砂上に曝されてゐる。
その砂浜を隔てゝ向ふには、短い灌木や、熊笹に覆はれた伊良湖の岬が見えてゐる。
私達はその砂山の横手を砂と共にすべつて水打際まで落ちて来た。浜辺は二つの岬の麓を繋ぎ合はせて、正面は神島と対してゐる。
人一人ゐない此絶端の砂浜を辿つて私達は伊良湖岬の鼻へさしかゝつた。この岬の端が海に沿つて廻つて行けるかどうかと危ふく思つて、岩鼻の上に暫く彳《たたず》んでゐた。見ると、水打際の砂の上に、草鞋の足跡と、犬の足跡とが向ふの方までつゞいてゐる。
「大丈夫だよ君、行けそうだ」。「さうでせうか」
二人は思ひ切つて、此処まで来た次手に伊良湖の絶端を極めようとて歩みだした。最初の内は岩と岩との間を求めて、波の退く暇を待つて、先の足跡をもとめて歩いて行つた。日が次第に西に傾いて、眼前と伊勢湾の水が現はれて来るにつれて、晩潮は急な勢を以て攻め寄せて来た。
巌を飛び越え、砂地を踏んで一二町来たと思ふと、もうそれから先きは草鞋の足跡も犬の足跡も見えなくなつた。はつと思つて振返ると、S君は少し遅れて岩角の蔭に退く波を待つてゐるのか、姿が見えない。
一飛びとんで岩の間に挿まつてゐる流木の上へ跳ると、また崖下の石の上に足跡が二つ三つ残つてゐる。が、それから先は、波が青く淵をなして湛へてゐる。見上げると、崩れかかつた崖の肌が傷ましく出て、ほろ/\と小石が落ちて来る。途方に暮れて立つてゐると、S君が漸く流木の端へ両手をかけて爬《は》ひ上つて来た。脚絆も草鞋も濡れてゐる。
「先きへ行けませうか」と、不安気に訊く。
「さあ、といつて、もう後方へも引返されさうもないね。夕潮が寄せて来たんだ」
「困つたな」
「いつその事、崖へ上らうか」、「さうですね」
二人は暫く躊躇してゐたが、思ひ切つて私が先きに立つて、岩角を登り初めた。崩れ落ちた砂を踏み固めて足段をつくりながら、両手を岩角にかけて身を運んで行く。
意地悪さうに崖下の波は、刻一刻に高く打当つて来る。白い歯をむき出して、落ちたらば一浚《ひとさらひ》にさらつて行かうとするやうな勢を見せてゐる。
「まるつきり探検者だね、一足滑らしたらもう最後だ」
「困つたな、山を越すことは出来ないでせうか」
「どうして君、まあ来て見たまへ」
私は岩角から藪の中へ身を入れた。見かけだけは、岩にひらみついてゐる、矮《ひく》い灌木かなにかのやうに思つてゐたのが、中へ入つて見ると、丈の高い熊笹が縦横に入り乱れてゐて、一足でも踏み入れさせまいとする。両手で掻き分けても分かれさうにもない。二人は顔を見合はせて立つてゐた。
岬の沖をギク/\艪の音がして白帆が一艘、湾内から志摩の国の方をさして出て行く、船中の者はおそらく二人を見付けて笑つてゞもゐるだらうと情なくなつた。行く先の方は、幾重も入江が折れ重なつてゐて、容易に果てさうもない。
思ひ切つてまた、砂の崩れる岩角を横に伝つて爬《は》ふやうにして進んで行つた。なるべく下を見ないやう、木の根でもあればそれに縋りつき、地へ手を突き込むやうにして通つて行つた。
向ふの方に砂浜が見える。この先きの方にあたつて海上に山影が浮び出た。曲折した山の懐を一足ごとに注意を払つて、私達が砂浜に降りたのは夫れから一時間程も後であつた。
ほつと息をついて振返つて見ると、波は狂はしき姿をして一層鋭く崖下に打寄せてゐる。
砂浜の遠い先きの方に、漁師の小舎が幾つも見えて、煙が上つてゐる。頭はぼんやりして、足が一層痛くなる。二人はもう語る元気もなく、深い砂の中を辿つて行つた。
砂地が尽きると笹藪が茂つてゐた。その下に道らしい跡がついてゐる。カサツ、カサツと物音がしてゐるので立ち留まつて聞いてゐると、中から熊笹の伐つたのを手に持つて老爺が一人出て来た。
「伊良湖の村へは此道を行けば好いかね」
「あつそれで好いだ」
「泊るやうな家はあるかね」
「さうさなあ、宿屋もあるだが、お前様たちならなんずら、藤原様へ頼んだら泊めてくれずい」
「そりやどういふ家だね」
「もとの村長様の家で、なんでも息子さんが東京へとか行つてゐるだ」
「泊めて呉れるかな」「頼んで御覧《ごらう》じ、どれ俺《わし》も一緒に帰つて行かずか、其処まで一緒に行つて上げずよ」
老爺は伐つた竹を束にして背負つた。私は立つて周囲を見廻してゐたが、不図気がつく足許に赤紫の五弁の花が咲いてゐる。
「老爺《おやぢ》さんこりやなんて花だい」と、一本摘んで訊いて見た。
「そりや大根の花だ」。「播いたのかね」。「いんね独りで生えたゞ」。
野生の大根の花は其処此処にしほらしく咲いてゐた。老爺さんは竹の束をカサコソいはせながら先きに立つて行つた。二人は後から色々な事を尋ねながらついて行つた。伊良湖の村は、以前は此近辺にあつたのだが、今は半里ばかり先きへ引移つてゐた。住家の跡に井戸だけが残つて石の蓋をしてあるのが幾つか目にはいつた。大きな松の樹の下に碑が立つてゐた。芭蕉の記念碑で、「鷹一つ見付けてうれし伊良湖崎」と刻《ほ》りつけてあつた。
夕日がもう薄れて、波のモオンする響きがうら悲しく磯辺から響いて来る、植ゑ附けたばかりの樟の木山の下を通つて、松林の中で老爺に分れて伊良湖の村の中程へ出た頃は、夕方の冷たさが肌を襲つて来た。
藤原村長の家を、大きな松の樹を目当てに見付けてはいつて行つた。幾度び声を掛けても返事がない。そのうちに主婦らしい五十恰好の人が裏口からはいつて来た。丁寧に来意を告げて泊めて呉れるやうに依頼した。
冷たい水で足を洗つて、大きな欅の角火鉢の据ゑてある前へ膝をおろした。主婦は大きな※[#「飮のへん+稻のつくり」、第4水準2−92−68]餅を沢山出して来て火鉢で焼いて喰べろといひながら炭をついだ。
「息子は農科大学へ行つてゐたが一昨年卒業して、直ぐ一年志願兵で入営して、今年帰つて来たが、四五日前|篠島《しのじま》へ嫁いである姉の所へ行つて、明日あたり帰つて来るだらう」と話した。そして、「またわしら処の子も東京で御厄介になる事も御座んすらい。何分よろしく御願ひします。こんな所で何も御馳走はねえけれど、まあゆつくり休んで行つて御くんなんし」と、丁寧にもてなして呉れた。
暗くなつてから用事で出掛けてゐた主人が自転車で汗をかきながら帰つて来た。話し好きな、人の好ささうな人であつた。風呂が出来たといふので入れて貰つた。
奥まつた室で、私達二人は寝ながら今日の冒険の話などしてゐると、勝手の方には風呂を貰ひに来た人達が何か高声で連りに話してゐた。
遠波の響きが寂しく聞こえて来る。疲れ過ぎた為めか眠れない。悲しい波の音はドオウ、ドオウと家を包んで鳴つてゐた。
底本:「現代日本紀行文学全集 中部日本編」ほるぷ出版
1976(昭和51)年8月1日初版発行
底本の親本:「霧の旅」中興館
1914(大正3)年6月
入力:林 幸雄
校正:鈴木厚司
ファイル作成:
2004年7月15日公開
青空文庫作成ファイル:
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