「これから先きには、まあこんな宿は無いでせうよ」
 S君はまたこんな事を言つた。
「いつそ此処で泊らうか」
「冗談ぢやない。さう今から予定を変へられて耐るもんぢやない」
「ぢや、赤羽根まで行つて、木賃宿へでも泊らうか」
「随分意地が悪いな」
「だつて仕方がないぢやないか」
 二人は砂地の疲れを十分癒して、ゆつくり休んでからその家を出かけた。
 東海道を伝つて、町の出端れから地図をたよりに右へ折れて、狭い小径を歩いて行つた。今日は小松原といふ村に競馬があつて、馬頭観世音の縁日があるといふので、この近在の村々の人は皆同じ道の上を賑やかに往き来してゐた。
 二川《ふたがわ》在から来たといふ男が先きに立つて、上細谷や下細谷などいふ村々を通り過ぎた。いづれも椿の大きな樹や、欅や樫の樹の茂つた村で、道の両側から椿の花はぽた/\落ちて、垣根に沿つて地面は真赤になつてゐた。
 路傍に伐り倒してあつた樫の木の木材の上へ腰をおろして休んでゐると、前を通る人が皆言葉をかけて、頭を下げて行つた。猟銃を肩にして獲物袋を垂《さ》げた五六人の遊猟者が村の奥の方から出て反対の方へ過ぎて行つた。何となく半島の奥を思
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