目に付いた。晝でも薄暗い路だ。片側の墓場は大きなペンキ塗の西洋館で切れる。眞言宗中學林の校舎だ。洋服を着た徒弟等が十五六人、運動場に出て盛にテニスをやツ[#「やツ」に傍点]てゐた。
間もなく路は明くなツて千駄木町[#「千駄木町」は底本では「千黙木町」]になる。其から一家の冬仕度に就いて考へたり、頭の底の動揺や不安に就いて考へたり、書かうと思ふ題材に就いて考へたりして、何時か高等學校の坡《どて》のところまで來た。また墓場と寺がある……、フト、ぐうたら[#「ぐうたら」に傍点]なる生活状態の危險を思ツて慄然《ぞツ》とした。
坡《どて》について曲る。少し行くと追分の通《とほり》だ。都會の響がガヤ/″\と耳に響いて、卒倒でもしさうな心持になる……何んだか氣がワク/\して、妄《やたら》と人に突當《つきあた》りさうだ。板橋|通《がよひ》のがたくり[#「がたくり」に傍点]馬車が辻《つじ》を曲りかけてけたゝましく鈴《べる》を鳴らしてゐた。俥、荷車、荷馬車、其が三方から集ツて來て、此處で些《ちよつ》と停滞する。由三は此の關《くわん》門を通り抜けて、森川町から本郷通りへブラリ/″\進む。雑踏《ひとごみ》の中《なか》を些《ちよつ》と古本屋の前に立停ツたり、小間物店や呉服店をチラと覗《のぞ》いて見たりして、毎《いつも》のやうに日影町《ひかげちよう》から春木町に出る。二三軒雑誌を素見《ひや》かして、中央會堂の少し先《さき》から本郷座の方に曲ツた。何んといふことはなかツたがウソ/\と本郷座の廣ツ場に入ツて見た。閉場中だ。がもう三四日で開《あ》くといふことで、立看板も出て居れば、木戸のところに來る××日開場といふビラも出てゐた。茶屋の前にはチラ/\光ツてゐる俥が十二三臺も駢んで何んとなく景氣づいてゐた。由三は何か此う別天地の空氣にでも觸れたやうな感じがして、些《ちよつ》と氣が浮《うは》ついた。またウソ/\と引返して電車|路《みち》に出る。ヤンワリと風が吹出した。埃が輕く立つ。
何處といふ的《あて》もなく歩いて見る氣で、小さな時計臺の下から大横町《おほよこちよう》に曲ツて、フト思出して、通りから引込むだ肉屋で肉を購ツた。そして其の通を眞ツ直に壱岐殿坂[#「壱岐殿坂」は底本では「壹岐殿坂」]を下ツて砲兵工廠の傍に出た。明い空に渦巻き登る煤煙、スク/\と立つ煙突、トタン屋根の列車式の工場、黒ずむだ赤煉瓦の建物、埃に塗された白堊、破れた硝子窓、そして時々耳をつんざくやうに起る破壊的の大響音……由三は其の音其の物象に、一種謂はれぬ不愉快と威壓を感じながら、崩れかツた長い長い土塀に沿ツて小石川の方に歩いた。眞砂町、田町、川勝前から柳町にかけて、其の通には古道具屋が多い。由三は道具屋さへあると、些と覗いて見たり立停ツて見たりする癖がある。別に購ふ氣もないが、値段《ねだん》づけてもしてあると其も見る。カン/\日の照付るのを嫌ツて、由三は何時か日の昃ツた側を歩いてゐた。
フト小さな古道具屋の前で立停ツた。是と目に付く程の物もない、がらくた物[#「がらくた物」に傍点]ばかりコテ/\並べ立てた店である。前通には皿や鉢や土瓶やドンブリや、何れも疵《きず》物の瀬戸類が埃に塗れて白くなつてゐた。漆の剥げた椀も見える。其の薄暗《うすぐら》い奥の方に金椽の額《がく》が一枚、鈍[#「鈍」は底本では「鋭」]《にぶ》い光を放《はな》ツてゐた。紫の羽織を着た十五六の娘の肖像畫だ。描寫も色彩も舊式の油繪で、紫の色もボケたやうになつて見えたが、何か熟《じツ》と仰ぎ見てゐるやうな眼だけは活々《いき/\》としてゐた。頬《ほほ》、鼻、口元、腮《あご》、都《すべ》て低く輪廓が整ツて、何處か何んとかいふ有名な藝者に似て豊艶な顔だ。
「あヽ、那女《あれ》だ……」と由三の胸は急にさざめき[#「さざめき」に傍点]立った。
確に昔の女の顔だ。で由三は些と若い息《いき》でも吹込まれたやうな感じがして、フラ/\と裡《なか》に入《はい》ツた。微《かすか》に手先を顫はしながら、額を取上げて、左見右《とみか》う見してゐて、
「こりや若干錢《いくら》だね。」と訊ねた。聲が調子|外《はづ》れて、腦天《なうてん》からでも出たやうに自分の耳に響いた。
「其ですかえ、そりやね。」と些と言《ことば》を切ツて、「一圓卅錢ばかりにして置きませう。」と賣ツても賣らなくつても可《い》いといふ風で、火鉢の傍を動かずに此方《こつち》を見てゐる。年の頃四十五六、頬の思切つて出張《でば》ツた、眼の飛出した、鼻の先の赭い、顏の大きな老爺《おやぢ》だ。
「フム。」と少時《しばらく》黙ツてゐて、「負からんかね。」
「然うですね、澤山《たんと》のことは可けませんが……」とシブ/\立起《たちあが》ツて店に下りて來た。額を手に取ツた。して額椽の箔が何うの畫の出來が何うのと、クド/\と解らぬ講釋を並べて、「拾錢もお減《ひ》き申して置きませうかね。」と無愛想にいふ。
「拾錢ぢや爲樣がない、八拾錢で可いだらう。」とぐづ[#「ぐづ」に傍点]ついていふ。
「ぢや、もう拾錢購ツて下さい。」
それで相談が纒《まとま》ツて、由三は殆ど蟆口の底をはたい[#「はたい」に傍点]て昔の女の肖像畫を購取ツた。そして古新聞で畫面を包むで貰ツて、それをブラ下げながらテク/\歩《ある》き出した。氣が妙に浮《うは》ついて來て、フワ/\と宙でも歩いてゐるかの心地《ここち》。で車の響、人の顔、日光に反射する軒燈の硝子の煌《きらめ》き、眼前にチラ/\する物の影物の音が都て自分とは遠く隔《へだ》ツてゐるかと思はれる。彼《あれ》や是と思出が幻のやうに胸に閃く。彼は其を心に捕《つかま》へて置いて、熟《じツ》と見詰めて見るだけのゆとり[#「ゆとり」に傍点]とてもなかツた……、閃めき行くまヽだ。
女は綾さんと謂ツた。始めて知ツたのは由三が十四五、女が十一二の頃で、其の頃由三は叔父《をぢ》の家に養はれてゐた。叔父は其の時分五六人の小資本家と合同して、小規模の麥酒釀造會社を經營中であツたが、綾さんは屡《よ》く叔父の家に來た。綾さんの父は、川越の藩士で、明治七八年頃からづツと逓信省の腰辨は腰辨でも、其の頃の官吏[#「官吏」は底本では「官史」]だからナカ/\幅も利けば、生活も樂にしてゐたらしい。處がフト事業熱に浮かされて、麥酒釀造の仲間に加はツた。合同資本と謂ツても、其の實《じつ》田舍から出たての叔父と綾さんの父とが幾らか金を持ツてゐたゞけて、後《あと》は他《ひと》の懐中《ふところ》を的《あて》の、ヤマを打當《ぶちあて》やうといふ連中の仕事だ。其の道の技師を一人《ひとり》雇ふでもないヤワな爲方《しかた》で、素人の釀造法は第一回目からして腐ツて了ツた。それで叔父も財産を煙にして了へば、綾さんの父も息《いき》ついて、會社は解散。綾さんの家は西方町の椎の木界隈の汚《きたな》い長屋に引込むで、一二年は恩給で喰ツてゐたが、それでは追付《おつ》かなくなツて、阿母さんの智慧で駄菓子屋を始めた。其でも綾さんは尚だ何時も紫のメレンスの羽織を着て、頭髪《かみ》から帯、都て邸町の娘風《むすめふう》で學校に通ツてゐた。加之《それに》顔立《かほだち》なり姿なり品の好い娘《こ》であツたから、設《よし》や紫の色が洗ひざれてはげちよろけ[#「はげちよろけ」に傍点]て來ても、さして貧乏《びんぼん》くさくならなかつた。
三年ばかり經《た》ツた。叔父の家では、六丁目の或る寺内の下宿屋をそツくり[#「そツくり」に傍点]其のまヽ讓受けて馴れぬ客商賣を始めることになツた。すると綾さんは風呂敷包にした菓子箱を抱込むで毎日のやうに駄菓子を賣りに來た。頭髪は桃割に結ツて、姿の何處かに瘻《やつ》れた世帯の苦勞の影が見えたが、其でも尚だ邸町の娘の風は脱《ぬ》けなかツた。上品ではあツたが、口の利方《ききかた》は老《ま》せた方で、何んでもツベコベと僥舌《しやべ》ツたけれども、調子の好かツた故《せい》か、他《ひと》に嫌はれるやうなことはなかった。加之《それに》擧止《とりなし》がおツとりしてゐたのと、割合《わりあい》に氣さくであツたのと、顔が綺麗だツたのとで、書生さん等《たち》は來る度に、喰はずとも交々《かはる/\》幾らかづゝ菓子を購ツて遺ツた。無論由三も他の小遣を節約して購ツた。そして綾さんは、時とするとゆツくり構込むで種々《いろいろ/\》なことを話す。例へば近頃|些々《ちょく/\》或る西洋畫家の許へモデルに頼まれて行くことや、或るミッションのマダムに可愛がられて、銀の十字架を貰ツたり造花《つくりばな》や西洋菓子を貰ツたりすることや、一家路頭に迷はせるばかりにした麥酒釀造仲間の山師連の憎くてならぬことや、親切にして呉れる近所の奥さん等の心の悦しいことや、然うかと思ふと阿母さんが父に内密で日濟の金を借りて困ツてゐること、其の父が毎日鶯と目白の世話ばかりして、何もせずにブラ/″\してゐるのに困ることなどを其から其へと話しつづけて、さも分別のあるやうに欝込むでゐることなどもあツた。して其の冬には、父は心臓に故障のある體をお邸の夜番に出たと聞いたが、其から間もなく由三は、故郷に歸らなければならぬ事になツて、三年ばかり綾さんを見る機會がなかツた。
四年經ツた。由三は父に死なれて、尚だ廿を越したばかりの年を家の柱となツて、一家殘らず東京に出た。東京ではポツ/\白地を着てゐる人を見受ける頃であツた。先づ叔父の家に落着いて、其となく蓮沼=綾さんの家の姓だ=の家の樣子を聞くと、皆達者でゐるが、相變《あいかは》[#「相變」は底本では「相綾」]らず貧乏で、近頃小さな氷屋を始めて、綾さんは鉛筆を製造する工場の女工になツてゐるといふことであツた。由三は何んといふ意味もなく、たゞ靜な邸町に住はうと思ツてゐたので、家を探しがてら綾さんの家の前を通ツた。そしてフラ/\と立寄ツて見る氣になツた。家は以前から見ると、づツと癈頽して、今にも倒れるかと思はれるやうに傾いてゐた。たゞ葡萄棚だけが繁りに繁ツて、小さな薄暗い家を奥深く見せてゐた。葡萄園を葭簀《よしず》で圍《かこ》ツて氷店にして、氷をかく臺もあればサイホンの瓶も三四本見えた。棚には葡萄酒やら苺水やらラムネの瓶やら、空罎にペーパだけ張ツた、罐やらが二三十本も並べてあツて、店頭《みせさき》には古ゲツトを掛けた床几の三ツも出してあツた。綾さんは店頭に盥を持出して、ジヤブ/″\何やら洗濯をしてゐた。見ると様子がスッカリ違ツてゐる。中形の浴衣《ゆかた》を着てゐたが、帯の結び方、頭髪《かみ》、思切ツて世話に碎けてゐた。
由三の姿を見ると、呆氣《あつけ》に取られた體で、「まあ、由さん、何うなすツたの。」
と謂ツたが、音《おん》の出方《でかた》まで下司な下町式になツて、以前凛とした點《とこ》のあツた顔にも氣品がなくなり、何處か仇ツぽい愛嬌が出來てゐた。たゞパッチリして眼だけは、處女《むすめ》の時其のまゝの濕みを有ツて、活々《いき/\》として奈何にも人を引付ける力があツた。
家の裡には矢張|鳥籠《とりかご》が幾ツもかけ[#「かけ」に傍点]てあツて、籠を飛廻ツてゐる目白の羽音が、パサ/\と靜に聞えた。前からある時計もチクチク鈍い音で時を刻むで、以前は無かツた月琴の三挺も壁にかゝツてゐた。
父は火鉢の許《とこ》に坐ツて、煙草を喫しながらジロリ/″\由三の樣子を瞶めて、ちよツくら口を利《き》かうともしない。そして時々ゴホン/″\咳込むで、蒼《あを》ざめた顔を眞ツ紅にしてゐた。前から無愛想な人だ。顔にはむくみ[#「むくみ」に傍点]が來てゐた。
由三は、其の甚《ひど》く衰弱してゐるのを見て、
「お惡いんですか。」と訊《き》くと、
「あ、」と横柄に謂ツテ、「肺に熱を持ツたといふことでな。」
と平氣で謂ツてケロリとしてゐる。
「可けませんナ。」
と顔を顰めると、
「何有《なあに》」と被《かぶ》せて「養生さへすれば可いといふことだが、何分家が此の通ぢやて、思はしく行かんのでナ。」
と隔《へだて》なく謂ツて苦笑する。
娘や家内は浴衣がけてゐるといふに、こ
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