上《あが》りざま母親はと見れば、二畳に突ツ俯したまゝスウ/\鼾《いびき》を立てゝゐる。神棚、佛壇、時計すらない家は荒涼してゐた。
由三は何がなし小腹が立ツて來て、「阿母さん。」
 と慳貪[#「慳貪」は底本では「慳貧」]に呼掛けた。そしてツト立起りながら、ドシンと畳を踏鳴らした。別に用もなかツたが、たゞ起きてゐて貰ひたかツたのだ。フラ/\と椽に出て見る。明《あかる》い空《そら》、明い空氣、由三は暗い心の底の底まで照らされるやうな感じがした。
「出掛けて見やうかナ。」
と思ツて机《つくゑ》の前へ引返すと、母親は鈍《にぶ》い眼光《まなざし》で眩《まぶ》しさうに此方《こツち》を見ながら、
「何けえ。」とノロ/\いふ。
「何ツて、もう晝寢《ひるね》をする時節でもないでせう。」と皮肉に謂ツて、「私、些《ちよつ》と本郷まで行ツて來ますよ。」
「本郷まで……、何《なに》しにノ。」
「肉でも購ツて來やうと思ツて…。」
「肉をナ。」
「え、少時《しばらく》肉の味を忘れてゐますからね。」
 由三の眼には今肉屋の切臺の上にある鮮紅な肉の色がハッキリと見えて、渇いた食慾は切に其を思ふ。で思切ツて家を出ることにしたが、一《ひと》ツは荒れきツた胸に賑な町の空気でも呼吸させたらばと思ツたからだ。
 少時《しばらく》すると由三は、薄茶のクシャ/\となツた中|折《をり》を被ツて、紺絣《こんがすり》の單衣《ひとへ》の上に、丈《たけ》も裄も引ツつまツた間に合せ物の羽織を着て、庭の方からコソ/\と家を出た。何やら氣が退《ひ》けて、甚く其處らを憚りながら、急足で長屋の通路を通り抜けると……兩側に十軒の長屋が四軒まで空家《あきや》になってゐて、古くなツた貸家札は、風に剥がれて落ちさうになツてゐた。井戸の傍《わき》を通ると、釣瓶も釣瓶|繩《たば》も流しに手繰り上げてあツて、其がガラ/\と干乾《ひから》びて、其處らに石|灰《ばい》が薄汚なくこびり[#「こびり」に傍点]付いてゐた。
 避病院の横手を通ツて、少し行くと場末の町となる。其處で病院に擔込む釣臺に出會《でツくわ》した。石灰酸の臭がプンと鼻を衝《つ》く。由三は何んとも謂はれぬ思をしながら、と、振向いて見ると、蔽の下に血の氣を失ツた男の脚が見えた。足の裏は日に照ツて変に白くなツてゐた。少時《しばらく》行くと、路の兩側に墓場がある、××寺第三號墓地と書いた札などが目に付いた。晝でも薄暗い路だ。片側の墓場は大きなペンキ塗の西洋館で切れる。眞言宗中學林の校舎だ。洋服を着た徒弟等が十五六人、運動場に出て盛にテニスをやツ[#「やツ」に傍点]てゐた。
 間もなく路は明くなツて千駄木町[#「千駄木町」は底本では「千黙木町」]になる。其から一家の冬仕度に就いて考へたり、頭の底の動揺や不安に就いて考へたり、書かうと思ふ題材に就いて考へたりして、何時か高等學校の坡《どて》のところまで來た。また墓場と寺がある……、フト、ぐうたら[#「ぐうたら」に傍点]なる生活状態の危險を思ツて慄然《ぞツ》とした。
 坡《どて》について曲る。少し行くと追分の通《とほり》だ。都會の響がガヤ/″\と耳に響いて、卒倒でもしさうな心持になる……何んだか氣がワク/\して、妄《やたら》と人に突當《つきあた》りさうだ。板橋|通《がよひ》のがたくり[#「がたくり」に傍点]馬車が辻《つじ》を曲りかけてけたゝましく鈴《べる》を鳴らしてゐた。俥、荷車、荷馬車、其が三方から集ツて來て、此處で些《ちよつ》と停滞する。由三は此の關《くわん》門を通り抜けて、森川町から本郷通りへブラリ/″\進む。雑踏《ひとごみ》の中《なか》を些《ちよつ》と古本屋の前に立停ツたり、小間物店や呉服店をチラと覗《のぞ》いて見たりして、毎《いつも》のやうに日影町《ひかげちよう》から春木町に出る。二三軒雑誌を素見《ひや》かして、中央會堂の少し先《さき》から本郷座の方に曲ツた。何んといふことはなかツたがウソ/\と本郷座の廣ツ場に入ツて見た。閉場中だ。がもう三四日で開《あ》くといふことで、立看板も出て居れば、木戸のところに來る××日開場といふビラも出てゐた。茶屋の前にはチラ/\光ツてゐる俥が十二三臺も駢んで何んとなく景氣づいてゐた。由三は何か此う別天地の空氣にでも觸れたやうな感じがして、些《ちよつ》と氣が浮《うは》ついた。またウソ/\と引返して電車|路《みち》に出る。ヤンワリと風が吹出した。埃が輕く立つ。
 何處といふ的《あて》もなく歩いて見る氣で、小さな時計臺の下から大横町《おほよこちよう》に曲ツて、フト思出して、通りから引込むだ肉屋で肉を購ツた。そして其の通を眞ツ直に壱岐殿坂[#「壱岐殿坂」は底本では「壹岐殿坂」]を下ツて砲兵工廠の傍に出た。明い空に渦巻き登る煤煙、スク/\と立つ煙突、トタン屋根の列車式の工場、黒ずむだ
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