赤煉瓦の建物、埃に塗された白堊、破れた硝子窓、そして時々耳をつんざくやうに起る破壊的の大響音……由三は其の音其の物象に、一種謂はれぬ不愉快と威壓を感じながら、崩れかツた長い長い土塀に沿ツて小石川の方に歩いた。眞砂町、田町、川勝前から柳町にかけて、其の通には古道具屋が多い。由三は道具屋さへあると、些と覗いて見たり立停ツて見たりする癖がある。別に購ふ氣もないが、値段《ねだん》づけてもしてあると其も見る。カン/\日の照付るのを嫌ツて、由三は何時か日の昃ツた側を歩いてゐた。
フト小さな古道具屋の前で立停ツた。是と目に付く程の物もない、がらくた物[#「がらくた物」に傍点]ばかりコテ/\並べ立てた店である。前通には皿や鉢や土瓶やドンブリや、何れも疵《きず》物の瀬戸類が埃に塗れて白くなつてゐた。漆の剥げた椀も見える。其の薄暗《うすぐら》い奥の方に金椽の額《がく》が一枚、鈍[#「鈍」は底本では「鋭」]《にぶ》い光を放《はな》ツてゐた。紫の羽織を着た十五六の娘の肖像畫だ。描寫も色彩も舊式の油繪で、紫の色もボケたやうになつて見えたが、何か熟《じツ》と仰ぎ見てゐるやうな眼だけは活々《いき/\》としてゐた。頬《ほほ》、鼻、口元、腮《あご》、都《すべ》て低く輪廓が整ツて、何處か何んとかいふ有名な藝者に似て豊艶な顔だ。
「あヽ、那女《あれ》だ……」と由三の胸は急にさざめき[#「さざめき」に傍点]立った。
確に昔の女の顔だ。で由三は些と若い息《いき》でも吹込まれたやうな感じがして、フラ/\と裡《なか》に入《はい》ツた。微《かすか》に手先を顫はしながら、額を取上げて、左見右《とみか》う見してゐて、
「こりや若干錢《いくら》だね。」と訊ねた。聲が調子|外《はづ》れて、腦天《なうてん》からでも出たやうに自分の耳に響いた。
「其ですかえ、そりやね。」と些と言《ことば》を切ツて、「一圓卅錢ばかりにして置きませう。」と賣ツても賣らなくつても可《い》いといふ風で、火鉢の傍を動かずに此方《こつち》を見てゐる。年の頃四十五六、頬の思切つて出張《でば》ツた、眼の飛出した、鼻の先の赭い、顏の大きな老爺《おやぢ》だ。
「フム。」と少時《しばらく》黙ツてゐて、「負からんかね。」
「然うですね、澤山《たんと》のことは可けませんが……」とシブ/\立起《たちあが》ツて店に下りて來た。額を手に取ツた。して額椽の箔が何うの畫の出來が何うのと、クド/\と解らぬ講釋を並べて、「拾錢もお減《ひ》き申して置きませうかね。」と無愛想にいふ。
「拾錢ぢや爲樣がない、八拾錢で可いだらう。」とぐづ[#「ぐづ」に傍点]ついていふ。
「ぢや、もう拾錢購ツて下さい。」
それで相談が纒《まとま》ツて、由三は殆ど蟆口の底をはたい[#「はたい」に傍点]て昔の女の肖像畫を購取ツた。そして古新聞で畫面を包むで貰ツて、それをブラ下げながらテク/\歩《ある》き出した。氣が妙に浮《うは》ついて來て、フワ/\と宙でも歩いてゐるかの心地《ここち》。で車の響、人の顔、日光に反射する軒燈の硝子の煌《きらめ》き、眼前にチラ/\する物の影物の音が都て自分とは遠く隔《へだ》ツてゐるかと思はれる。彼《あれ》や是と思出が幻のやうに胸に閃く。彼は其を心に捕《つかま》へて置いて、熟《じツ》と見詰めて見るだけのゆとり[#「ゆとり」に傍点]とてもなかツた……、閃めき行くまヽだ。
女は綾さんと謂ツた。始めて知ツたのは由三が十四五、女が十一二の頃で、其の頃由三は叔父《をぢ》の家に養はれてゐた。叔父は其の時分五六人の小資本家と合同して、小規模の麥酒釀造會社を經營中であツたが、綾さんは屡《よ》く叔父の家に來た。綾さんの父は、川越の藩士で、明治七八年頃からづツと逓信省の腰辨は腰辨でも、其の頃の官吏[#「官吏」は底本では「官史」]だからナカ/\幅も利けば、生活も樂にしてゐたらしい。處がフト事業熱に浮かされて、麥酒釀造の仲間に加はツた。合同資本と謂ツても、其の實《じつ》田舍から出たての叔父と綾さんの父とが幾らか金を持ツてゐたゞけて、後《あと》は他《ひと》の懐中《ふところ》を的《あて》の、ヤマを打當《ぶちあて》やうといふ連中の仕事だ。其の道の技師を一人《ひとり》雇ふでもないヤワな爲方《しかた》で、素人の釀造法は第一回目からして腐ツて了ツた。それで叔父も財産を煙にして了へば、綾さんの父も息《いき》ついて、會社は解散。綾さんの家は西方町の椎の木界隈の汚《きたな》い長屋に引込むで、一二年は恩給で喰ツてゐたが、それでは追付《おつ》かなくなツて、阿母さんの智慧で駄菓子屋を始めた。其でも綾さんは尚だ何時も紫のメレンスの羽織を着て、頭髪《かみ》から帯、都て邸町の娘風《むすめふう》で學校に通ツてゐた。加之《それに》顔立《かほだち》なり姿なり品の好い娘《こ》であツたから、設《よし
前へ
次へ
全8ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
三島 霜川 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング