》や紫の色が洗ひざれてはげちよろけ[#「はげちよろけ」に傍点]て來ても、さして貧乏《びんぼん》くさくならなかつた。
三年ばかり經《た》ツた。叔父の家では、六丁目の或る寺内の下宿屋をそツくり[#「そツくり」に傍点]其のまヽ讓受けて馴れぬ客商賣を始めることになツた。すると綾さんは風呂敷包にした菓子箱を抱込むで毎日のやうに駄菓子を賣りに來た。頭髪は桃割に結ツて、姿の何處かに瘻《やつ》れた世帯の苦勞の影が見えたが、其でも尚だ邸町の娘の風は脱《ぬ》けなかツた。上品ではあツたが、口の利方《ききかた》は老《ま》せた方で、何んでもツベコベと僥舌《しやべ》ツたけれども、調子の好かツた故《せい》か、他《ひと》に嫌はれるやうなことはなかった。加之《それに》擧止《とりなし》がおツとりしてゐたのと、割合《わりあい》に氣さくであツたのと、顔が綺麗だツたのとで、書生さん等《たち》は來る度に、喰はずとも交々《かはる/\》幾らかづゝ菓子を購ツて遺ツた。無論由三も他の小遣を節約して購ツた。そして綾さんは、時とするとゆツくり構込むで種々《いろいろ/\》なことを話す。例へば近頃|些々《ちょく/\》或る西洋畫家の許へモデルに頼まれて行くことや、或るミッションのマダムに可愛がられて、銀の十字架を貰ツたり造花《つくりばな》や西洋菓子を貰ツたりすることや、一家路頭に迷はせるばかりにした麥酒釀造仲間の山師連の憎くてならぬことや、親切にして呉れる近所の奥さん等の心の悦しいことや、然うかと思ふと阿母さんが父に内密で日濟の金を借りて困ツてゐること、其の父が毎日鶯と目白の世話ばかりして、何もせずにブラ/″\してゐるのに困ることなどを其から其へと話しつづけて、さも分別のあるやうに欝込むでゐることなどもあツた。して其の冬には、父は心臓に故障のある體をお邸の夜番に出たと聞いたが、其から間もなく由三は、故郷に歸らなければならぬ事になツて、三年ばかり綾さんを見る機會がなかツた。
四年經ツた。由三は父に死なれて、尚だ廿を越したばかりの年を家の柱となツて、一家殘らず東京に出た。東京ではポツ/\白地を着てゐる人を見受ける頃であツた。先づ叔父の家に落着いて、其となく蓮沼=綾さんの家の姓だ=の家の樣子を聞くと、皆達者でゐるが、相變《あいかは》[#「相變」は底本では「相綾」]らず貧乏で、近頃小さな氷屋を始めて、綾さんは鉛筆を製造する工場の女工になツてゐるといふことであツた。由三は何んといふ意味もなく、たゞ靜な邸町に住はうと思ツてゐたので、家を探しがてら綾さんの家の前を通ツた。そしてフラ/\と立寄ツて見る氣になツた。家は以前から見ると、づツと癈頽して、今にも倒れるかと思はれるやうに傾いてゐた。たゞ葡萄棚だけが繁りに繁ツて、小さな薄暗い家を奥深く見せてゐた。葡萄園を葭簀《よしず》で圍《かこ》ツて氷店にして、氷をかく臺もあればサイホンの瓶も三四本見えた。棚には葡萄酒やら苺水やらラムネの瓶やら、空罎にペーパだけ張ツた、罐やらが二三十本も並べてあツて、店頭《みせさき》には古ゲツトを掛けた床几の三ツも出してあツた。綾さんは店頭に盥を持出して、ジヤブ/″\何やら洗濯をしてゐた。見ると様子がスッカリ違ツてゐる。中形の浴衣《ゆかた》を着てゐたが、帯の結び方、頭髪《かみ》、思切ツて世話に碎けてゐた。
由三の姿を見ると、呆氣《あつけ》に取られた體で、「まあ、由さん、何うなすツたの。」
と謂ツたが、音《おん》の出方《でかた》まで下司な下町式になツて、以前凛とした點《とこ》のあツた顔にも氣品がなくなり、何處か仇ツぽい愛嬌が出來てゐた。たゞパッチリして眼だけは、處女《むすめ》の時其のまゝの濕みを有ツて、活々《いき/\》として奈何にも人を引付ける力があツた。
家の裡には矢張|鳥籠《とりかご》が幾ツもかけ[#「かけ」に傍点]てあツて、籠を飛廻ツてゐる目白の羽音が、パサ/\と靜に聞えた。前からある時計もチクチク鈍い音で時を刻むで、以前は無かツた月琴の三挺も壁にかゝツてゐた。
父は火鉢の許《とこ》に坐ツて、煙草を喫しながらジロリ/″\由三の樣子を瞶めて、ちよツくら口を利《き》かうともしない。そして時々ゴホン/″\咳込むで、蒼《あを》ざめた顔を眞ツ紅にしてゐた。前から無愛想な人だ。顔にはむくみ[#「むくみ」に傍点]が來てゐた。
由三は、其の甚《ひど》く衰弱してゐるのを見て、
「お惡いんですか。」と訊《き》くと、
「あ、」と横柄に謂ツテ、「肺に熱を持ツたといふことでな。」
と平氣で謂ツてケロリとしてゐる。
「可けませんナ。」
と顔を顰めると、
「何有《なあに》」と被《かぶ》せて「養生さへすれば可いといふことだが、何分家が此の通ぢやて、思はしく行かんのでナ。」
と隔《へだて》なく謂ツて苦笑する。
娘や家内は浴衣がけてゐるといふに、こ
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