れはまた尚だ木綿の黒紋付の羽織に垢づいた袷で、以前の通り堅くるしい態《なり》をしてゐた。
 由三は何がなし冷い手で胸を撫でられるやうな心地《こゝち》がした。
 綾さんには男の兄弟といふがなかツた。妹が両人あツて、次の妹はお兼と謂ツて、姉にも優ツて美しかツた。もう十六になツたといふ。其は近頃印刷局に通ツてゐるとのことであツたが、末ツ子のお芳といふのは、大した駄々ツ子で、九ツにもなツて尚だ母親の膝の上に乗ツて、萎びかゝツた乳をさぐッてゐるといふ風であツた。母親は氣の好い人で、開《あ》けひろげた胸を芳坊にいじらせながら、早口にクド/\と貧乏話を始めた。そして由三が家を探しに來たことをいふと、綾さんと兩人《ふたり》で、那處《あすこ》は何うの此處は何うと、恰で親族の者が引越して來るとでもいふやうな騒をする。父は一切沒交渉で、其の話が始まるとプイと立ツて縁側に出て、鶯に遣る餌を摺ツてゐた。
 結局綾さんが案内に立ツて、近所の空家《あきや》を探すことになツた。そして適當な家を目付けて、其を借りることになツたが、敷金家賃其の他一切の話合《はなしあひ》は都《すべ》て綾さんが取仕切《とりしき》ツて、由三は只其の後《あと》について挨拶するだけであツた。で由三は、餘りに綾さんの世馴《よな》れた所置振り、何んとも謂はれぬ一種の不快を感じた。其でも左《と》に右《かく》話が定《きま》ツて、由三の一家は直《すぐ》に其の家へ引越した。して其の當座、兩人はこツそり[#「こツそり」に傍点]其處らを夜歩きしたり、また何彼《なにか》と用にかこつけて彼方《あツち》此方《こツち》と歩き廻ツて、芝居にも二三度入ツた。其は然し、二月ばかりの間で、兩人の関係は何時とはなく疎々《うと/\》しくなツた。其でも綾さんは毎日のやうにやツ[#「やツ」に傍点]て來て、母や妹と一ツきりづゝ話して歸ツた。何うかすると工場の歸りだとか謂ツて、鉛筆の心《しん》の粉《こな》で手を眞ツ黒にしながら、其を自慢にしてゐるやうなこともあツた。兩手共荒れて皹《ひゞ》[#「皹」は底本では「暉」]の切たやうになツて、そしてカサ/\してゐた。言《ことば》にしろ姿にしろ其の通で、何んでもあけすけ[#「あけすけ」に傍点]にさらけ出して、世帯の苦しいことが口に付いてゐた。で臆面もなく米も借りに來れば小遣も借りに來た。此方に都合があツて、質屋の事でも相談すると、オイソレと直[#「直」は底本では「値」]に受込むで、サツサと自分で出掛けて來て呉れる、見得も外聞もあツたものでない、此方で頼むのに極の惡いやうなことでもいふと、
「何有、何處のお家《うち》だツて然うですわ。幾ら玄関を張ツてゐらしツても、此の邊のお家で質屋の帳面の無い家と謂ツたら、そりや少ないわ。」と低聲《こごえ》に謂ツて、はしやいだ笑方《わらひかた》をする。
 綾さんは近所の家の世帯を軒別に能く知抜いてゐた。そして其家《そこ》此家《こゝ》の質使をすることを平氣で吹聴した。かと思ふと茶屋女のやうな、嫌味《いやみ》に意氣がツた風をして、白粉をこツてり塗りこくツて、根津や三崎町あたりの小芝居に出てゐる役者の噂をしてホク/\してゐることもあツた。蔭沙汰では根津の下廻りの後《あと》を追駈け廻してゐるといふことも聞いた。
 氷店は春の間《うち》ひツそりとして、滅多と人の入ツてゐることがなかツた。母親は能く居眠をしてゐる、父は何時も火鉢の傍で煙草を喫しながらゴボ/\咳《せき》をしてゐる、芳坊は近所の男の子の仲間に入ツて、カン/\日の照付ける大道《だいだう》で砂塗《すなまぼし》になツて遊んでゐた。が夜となると、店の景氣がカラリと變る。綾さんも兼さんも、綺麗にお化粧をして店に出てゐる頃には、一人または二人づゞ若い書生さん等《たち》が集ツて來て、多い時には八九人も頭を揃へて何やらガヤ/″\騷いでゐた。何れも定連だ。そして月琴を彈く者もあれば、明笛《みんてき》を吹く者もあり、姉妹がまた其がいけた[#「いけた」に傍点]ので、喧《やかま》しい合奏は十一時十二時まで續いた。母親はこツそり其の騒を脱《ぬ》けて翌日《あす》の米の心配に來たことも往々《ま/\》あツた。由三は他に若い血を躁がせて歩くところが出來たので、決して其の仲間に加はらなかツた。して冷ツこい眼で傍觀者の地位に立ツてゐた。
 秋になツた。氷店はスツカリさびれて、夜《よる》集ツて來る定連も少なくなツた。秋が深くなるにつれて、父の衰弱も目に立ツたが、一家の癈頽も目に立ツて、綾さんはせツせ[#「せツせ」に傍点]と工場に通ひ出した。で綾さんの手は何時も鉛筆の粉で眞ツ黒になツてゐた。其でも滅多と欝いだり悄氣《しよげ》たりしてゐるやうなことはなかツたが、何うかするとツク/″\と、「阿父さんが那如《あゝ》してゐたんぢや、幾ら稼いだツて到底《とても
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