》遣切れ[#「遣切れ」は底本では「遺切れ」]やしないわ。寧《いツそ》もう家を飛出して了はうかも思ふこともあるけれども……」と謂ツて歎息してゐた。然うかと思ふと、ノンキに根津の替りを見て來た狂言の筋を話したり役者の噂をしたりして獨ではしやい[#「はしやい」に傍点]でゐることもあツた。然う此うするうちに綾さんに婿を取るといふ話が持上ツた。婿は綾さんの出てゐる工場の職工で、先方から[#「から」は底本では「がら」]望むで貧乏な家に入らうといふのであツた。無論綾さんの容貌《きりやう》を命にして來る婿だ。綾さんも滿更でもなかツたらしい。で、其の話の進行中に由三は一家を提《ひツさ》げて下谷の七軒町に引越《ひツこ》した。そして綾さんの家との交通は、ふツつり絶えて了ツた。
其から四五年も經ツて、由三は一度本郷通で綾さんに遇ツたことがある。十月も半ばであツたが、綾さんは洗ひざれた竪縞の單衣でトボ/\と町の片側を歩いてゐた。何處か氣脱のした體で由三が眼前《めのまえ》に突ツ立ツても氣が付かなかツた。で聲を掛けると、ソワ/\しな不安な眼光《まなざし》で、只見で置いて、辛面《やツと》にツこり[#「にツこり」に傍点]して挨拶をするといふ始末。家はと訊くと、越ケ谷の方に行ツてゐるといふ。そこで些と立話に一家の事情を訊くと、那《かれ》から間もなく父は死んで了ふ、婿といふのが思ツたより意久地がなくツて、到底一家を支へて行く力がなかツたばかりか、病身で稼が思ふやうでないで、家が始終《しよつちゆ》ゴタ/\する。するうちにお兼は定連の一人と出來て神戸の方へ駈落ちして、彼方で世帯を持つ。家は益々遣切れ[#「遣切れ」は底本では「遺切れ」]なくなツて、遂々《とう/\》世帯を疊むで了ふ、芳坊《よしぼう》は川越の親類に預かツて貰ふ、母親は東京で奉公することになる、自分等は世帯を持つ工面の出來るまで越ケ谷に引込むことになツて、一家は全く離散の運命に陥ツて了ツた。して今日は、母親が奉公先で病ついたといふとで、取る物も取りあえず久しぶりで東京に出て來たとのことであツたが、然ういふ自身も、世帯の瘻か、それとも病氣か、頭髪は地色の見えるまで薄くなり、顔も蒼ざめて、腫物の痕の見えた首筋には絹のハンケチを巻付けてゐた。そして聲は變に喉に引ツ絡むで、色も匂も失せた哀な姿となツてゐた。
由三は只聞いたまゝで別れて、格別同情も寄せなかツた。でも二三日は影の薄くなツた綾さんの姿を胸に活かして、變な氣持になツてゐた。併し直に忘れて了ツて、ついぞ思出して見るやうなこともなかツた。して其の後全く消息も絶えて了ツた。
由三は然う謂ツたやうな過去の事象を胸に描いたり消したりして、フラ/\と歩き續けた。紫の羽織を着てゐた頃の綾さんの姿を思浮べると、遉に胸頭に輕い[#「輕い」は底本では「經い」]痛《いた》みを感ぜぬでもなかツた。叔父に「娶《もら》ツたら何うだ。」と謂はれたことなども思出した。兩人共夢を見て=意味も姿《すがた》も違ツてゐるが=活きてゐたことなども考へた。
由三は何時か白山の森の中に入ツて、境内をグルリと廻ツた。森の中の空氣はしんめり[#「しんめり」に傍点]として冷たかツた。其處は始めて綾さんの手を握ツて、其のカサ/\してゐるのに驚いたところだ。して今は自分の心のカサ/\してゐるのに驚いた……其の思出の深い地を踏むでゐるからと謂ツて、由三は何んの感じにも味《あぢはひ》にも觸れなかツた。矢張飽々した心の底から、何か切に空乏を訴へて、ツク/\と自分の生の凋落を思ツてゐた。
何しろ家へ歸るのが嫌《いや》だ!埃深い癈頽の氣の漂ツた家に歸ると、何時でもドン底に落込むだやうな感じがする……其の感じが嫌だ!で外《そと》さへ出ると、少時でも其の感じから脱れてゐやうとする。今日も其だ。由三は無意味に神樂殿の額を見たり、拜殿の前に突ツ立ツたり、または白旗櫻の碑を讀むだりして時を経てゐた。そしてもう何も見る物もなくなツた時分に、ウソ/\と森を出て、御殿町の方へ上ツた。其から植物園の傍の道《みち》を通ツて氷川田圃に出た。只ある工場の前に出ると、其は以前鉛筆を製造する工場であツたことを思出した。そして其の門、其の邊の路、何れも綾さんが毎日通ツた其であることを思ツた。たゞ思ツただけだ。由三は何がなし其の乾いた心が悲しくなツた。
フト軽い寒氣が身裡《みうち》に泌みた。見ると日光《ひかげ》は何時か薄ツすりして、空氣も空《そら》も澄むだけ澄みきり、西の方はパツと輝いてゐた。其處らには暗い蔭が出來た。由三はブラ下げてゐる肖像畫の重《おも》みが腕にこたへ[#「こたへ」に傍点]て來て、幾度か捨て了ふか、さらずば子供にでも呉れて了はうかと思ツた。で今更なけなし[#「なけなし」に傍点]の錢をはたい[#「はたい」に傍点]て購ツたのが
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