悔《くい》られもする。かと思ふと、故郷に歸ツてゐた頃、切りと綾さんのことを思出してゐた其の時分のことが懐しいやうにも思ツた。
 また小時フラ/\と歩續けた。そして林町から巣鴨通に抜けて、瘋癲病院の赤煉瓦の土塀に沿ツて富士前に出た。動坂に入ると、其處らがもう薄々と黄昏れて、道行く人の吐く息が目に付いた。霧の深い晩景《ばんがた》であツた。高い木立の下を抜けると、家並が續く。冷たさうな火影が、ボンヤリ霧の中にちらついて、何《ど》の家もひツそりしてゐた。由三は腹をペコ/\に減らして、棒のやうになツた足を引摺りながらコソ/\と町を通ツた。そして何んの爲に的もなくウロ/\歩き廻ツたかを疑ひながら長屋の總門を入ツた。何んだか穴にでも入るやうな心地がした。地はしツ[#「しツ」に傍点]とり濕ツて、井戸のあたりには灰色の氣がモヤ/\と蒸上ツてゐた。其の奥の方に障子に映した火光《あかり》が狐色になツて見えた。荒涼の氣が襲ふ。
 家に入ツた。尚だ洋燈も灯さずにあツて、母親は暗い臺所で何かモゾクサ動《うご》いてゐた。向ふの家の臺所から火光が射《さ》してゐて、其が奈何にも奥深く見えた。其の狹い區域にも霧の色が濃《こまやか》に見える……由三は死滅の境にでも踏込むだやうな感がして、ブラ下げてゐた肖像畫を隅ツこの方に抛《ほふ》り出した。そして洋燈[#「洋燈」は底本では「洋澄」]を灯《とも》した。微暗《ほのぐら》い火影は沈靜な……といふよりは停滞した空氣に漂《たゞよ》ツて、癈頽した家のボロを照らした。由三は近頃になく草臥れた兩足を投出して、ぐッたり机に凭れかゝツた。そして眼を瞑《つぶ》ツて何んといふことはなく考出した。フト肖像畫の綾さんの姿が眼前にちらついた……何んだか癈物でも購ツて來たやうに思はれてならぬ。で眼を啓けて隅ツこに抛出した肖像畫を熟と見詰めてゐたが、ツト立起ツて引ツ摺ふやうに肖像畫を取上げた。そして古新聞を被せたまゝでこツそり[#「こツそり」に傍点]戸棚の奥に抛込むだ。

 少時すると由三は、何か此う馬鹿を見たやうな心持で、久しぶりで肉の味を味はツた。して由三は何時まで經ツても肖像畫を戸棚から出さなかッた。



底本:「三島霜川選集(中巻)」三島霜川選集刊行会
   1979(昭和54)年11月20日発行
初出:「中央公論」
   1908(明治41)年12月1日号
※「つくね[#「つくね」に傍点]込む」、「幾ら稼いだツて到底《とても》」は底本ではそれぞれ、「つく[#「つく」に傍点]ね込む」、「幾ら稼いだツて到《とても》底」となっています。
※改行行頭の1字下げに関し、不統一と思われるところもそのままにしました。
※新字と旧字の混在は、底本通りとしてました。
※平仮名に対して、片仮名繰り返し記号「ヽ」が用いられた箇所は、底本通りとしました。
※1行開きの箇所は、底本では2行に8個の「*」が配されています。
入力:小林 徹
校正:松永正敏
2003年12月6日作成
青空文庫作成ファイル:
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