出した。「此うしてゐて何うなるのだ。」と謂ツたやうな佗しい感じが、輕く胸頭《むなさき》を緊付《しめつ》ける。
母親は何やらモゾクサしてゐて、「私《わし》もナ、ひよツとすると、此の冬あたりは逝《い》くやも知れンてノ。」と他言《ひとごと》のやうに平気でいふ。
由三は恟《ぎよ》ツとして眼を啓けた。
「え、何うして?……」と詰《なじ》るやうにいふと、
「理窟はないけれどナ、何んだか其様な氣がしてならんでね。」
「今死んで何うするんです。」
「何うするツて、壽命なら爲方《しかた》がないではないかノ。」
と淋しく笑ふ。成程然ういふ母親は、此の秋口から慢性の腎臓病に罹ツて、がツくり弱込《よわりこ》むで來た。顔にも手足にも、むくみ[#「むくみ」に傍点]が來て、血色も思切ツて悪くなツた。で何事に依らず氣疎《けうと》くなツて、頭髪《かみ》も埃に塗《まみ》れたまゝにそゝけ[#「そゝけ」に傍点]立ツて、一段と瘻《やつれ》が甚《ひど》く見える。そして切《しきり》と故郷を戀しがツてゐる。國には尚だ七十八にもなる生みの母が活きてゐるのでお互に達者でゐる間《うち》に一度顔を合はせて來たいといふのであツた。
別れてから十四年にもなる。母親には故郷が甚だ遠くなツてゐた。で自分にも告々と老が迫ツて來るのにつれて、故郷の老母を思ふ情が痛切になツて、此の四五年|北《きた》の空《そら》をのみ憧れてゐる。由三は能く其の心を了解してゐた。そしてウンと氣張ツて、歸國させるだけの金を作らうと奮發しても見るのであツたが、何時も何か眼前の事情に計画を崩されて其が成立たずに了ふ。一《ひと》ツは底疲《そこづかれ》のしてゐる由三の根氣の足りぬ故《せい》もあツたらう。近頃では、由三はもう、歸國させるといふことを考へるのも懶《ものう》くなツた。其を考へたり言出されたりすることが嫌《いや》で/\耐らぬ。して何うかすると母親の顔を見るさへ不快でならぬこともあツた。
話が途断れると、屋根の上をコト/\と鴉の歩き廻る音がする……由三は鉛《なまり》のやうな光彩《ひかり》すらない生涯を思浮べながら、フト横に轉がツた。天床、畳、壁、障子、襖、小さな天地ではあるけれども、都《すべ》て敗頽《はいたい》と衰残《すゐざん》の影が、ハツキリと眼に映る。と氣が激しく燥々《いら/\》して來て凝如《じツ》としてゐては、何か此う敗頽の氣と埃とに體も心も引ツ括めて了ふかと思はれて、耐《たま》らなく家にゐるのが嫌になツて來た。淋しいといふよりは、空乏の感じが針のやうに神經をつゝく。それでも思切ツて家を飛出す踏切もなかツた。
「もう何うすることも出來なくなツて了ツたんぢやないか。」
圧されてゐるやうな心地だ。ドン底に落ちてゐるといふ悲哀が襲ふ。
濕氣のある庭には、秋の日光が零《こぼ》れて、しツとり[#「しツとり」に傍点]と閃いてゐた。其處には青い草が短く伸びて、肥料も遣らずに放《ほ》ツたらかしてある薔薇と宮城野萩の鉢|植《うえ》とが七八《ななやつ》並んで、薔薇には、小さい花が二三輪淋しく咲いてゐた。隅の方には、葉の細い柿の樹が一本、くの字|形《なり》にひよろりとしてゐる。實《な》らぬ柿の樹だ。其の下に地を掘ツた向ふの家の芥溜が垣根越しに見える。少し離れて臺所も見える。其れも長屋で、褓襁《おしめ》の干してあるのも見えれば、厠も見えて、此方《こツち》では向ふの家の暴露された裏を見せつけられてゐるのであツた。向ふの側にも柿の樹があツて、其には先ツぽの黄色になつた柿が枝もたわゝに實《な》ツてゐた。柿の葉は微《かすか》に戰《そよ》いで、チラ/\と日光《ひかげ》が動く。
由三は何時かウト/\してゐた。ホガラ/\した秋の暖さが體に通ツて、何んだか生温《なまぬる》い湯にでも入ツてゐるやうな心地《こゝち》……、幻《うつゝ》から幻へと幻がはてしなく續いて、種々《さま/\》な影が眼前を過ぎる、……只《と》見《み》ると、自分は、ニコライ堂のやうな高い/\塔《たふ》の屋根に登ツて躍《をど》ツたり跳たりしてゐる。其の下に幾百千とも知れぬ顔がウヨ/\して其の狂態を見物してゐる。何《いづ》れも冷笑の顔だ。其に激昂して、いよ/\躍り狂ふ……、かと思ふと、足を踏滑らして眞ツ逆さま!……、落ちたかと思ふと落ちもしない。翼が生えたやうに宙にフワ/\して、何か知ら金色《こんじき》の光がキラ/\と眼の先に煌《きらめ》く。と、其が鋭利な刄《は》物になツて眼の中に突ツ込むで來る。其處で幻が覺めかゝツて、強く腕の痺《しびれ》を感じた。腕を枕にしてゐるからだと氣が付いたが、それでゐて寢返りを打つことも爲《し》なかった。痺れるだけ痺れさせて置く氣だ。指先から肘にかけて感覺も何もなくなった頃に、由三は辛而《やツと》眼を啓けた。
痺れきツた腕を摩りながら、徐《やを》ら起|
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