昔の女
三島霜川

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)埃深《ほこりふかい》い北向の家である。

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)親子|四《よ》人

[#]:入力者注
(例)しちりんやらがしだらなく[#「しだらなく」に傍点]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ウヨ/\してゐた。
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 埃深《ほこりふかい》い北向の家である。低い木ッ葉屋根の二軒長屋で、子供の多い老巡査が住み荒して行ッた後《あと》だ。四畳半と三畳と並んで、其に椽が付いて南に向ッてゐる。で日は家中に射込むて都《すべ》て露出《むきだ》し……薄暗い臺所には、皿やら椀やら俎板やらしちりんやらがしだらなく[#「しだらなく」に傍点]取ツちらかツてゐるのも見えれば、屡《よ》く開ツ放してある押入には、蒲團綿やら襤褸屑《ぼろくず》やら何んといふこともなくつくね[#「つくね」に傍点]込むであるのも見える。障子は夏、外《はづ》したまゝで、残らず破れたなり煤けたなりで便所の傍《わき》にたてかけ[#「たてかけ」に傍点]てある。もう朝晩は秋の冷気が身に沁むほどだといふに、勝見一家の倦怠とやりツぱなし[#「やりツぱなし」に傍点]は、老巡査一家の其にも増して、障子を繕ツて入れるだけの面倒も見ない。雨でも降るとスッカリ雨戸を閉切《しめき》ツて親子|四《よ》人|微暗《ほのぐら》い裡《なか》に何がなしモゾクサしていじけ込むてゐる。天気の好い日でも格子戸の方の雨戸だけは閉切《しめき》ツて、臺所口から出入してゐる。幾ら水を換へて置いても、雨上《あめあが》りには屹度、手水鉢《てふづばち》の底に蚯蚓が四五匹づゝウヨ/\してゐた。家が古いから屋根から流れ込むのであらう。主人の由三は、卅を越した年を尚《ま》だ独身で、萬事母親に面倒を掛けてゐた。
 由三は何処に勤めるでもない。何時も何か充《つま》らないやうな、物足りぬ顔で大きな古|机《づくえ》の前に坐り込むでゐるが、飽きるとゴロリ横になツて、貧乏揺をしながら何時とはなく眠ツて了ふ。何うかすると裏の田園に散歩に出掛けることもある。机の上には、いかな日でも原稿用紙と筆とが丁と揃ツてゐないことはないが、それでゐて滅多と原稿の纒ツた例《ためし》がない。頭がだらけ[#「だらけ」に傍点]きツて、正體がないからだ。
 今日も由三は十一時頃に起きて、其から二三時間もマジリ/\してゐて、もう敷島の十二三本も吸ツた。吸殼は火鉢の隅に目立つやうに堆《かさ》になツて、口が苦くなる、頭もソロ/\倦《たる》くなツて來て、輕く振ツて見ると、后頭が鉛でも詰めてあるやうに重い。此うなると墨を磨るのさへ懶《ものう》い、で、妄《むやみ》と生叺《なまあくび》だ。臺所|傍《わき》の二|畳《じよ》でも母親が長い叺をする……眼鏡越しに由三の方を見て、
「隣りのお婆さん、何うなすツたかナ。」と獨言《ひとりごと》のやうにいふ。返事がなかツたので、更に押返して
「亡《な》くなツたかナ。」
 と頼りなげな聲だ。
「何うだツて可いぢやありませんか、他《ひと》のこと。」
 由三はうるさ[#「うるさ」に傍点]ゝうに謂ツて、外《そと》を見る。青《あを》い空、輝く日光《にツくわう》……其の明い、静な日和《ひより》を見ると、由三は何がなし其の身が幽囚でもされてゐるやうな感じがした。
「でも怖《こわ》いからノ。」と母親は重い口で染々《しみじみ》といふ。
「氣を付けてさへゐたら大丈夫です。」
「其は然うだがノ。」と不安らしい。
「大丈夫ですよ。赤痢といふものは、氣を付けてさへゐたら、決して罹りもしなければ、傳染するものではありません。」
「然うかノ。」
 と謂ツて母親は黙ツて了ツた。隣りの婆さんといふのは、赤痢に罹ツたのを一週間も隱匿《かく》してゐて、昨日の午後避病院に擔込《かつぎこ》まれたのであツた。避病院は、つい近所にある。坐ツてゐても消毒室の煙突だけは見える。
「嫌だノ。」と母親はまた心細さうに、「今年は能く人が死なツしやるナ。気候の悪い故でもあるかノ。」
 と謂ツて小聲で念佛を稱へる。
「そりや死にもするけれど、生れた家《とこ》も随分あるさ。」
 と由三はお産のあツた家《うち》を六軒ばかり數へた。そして、「此の長屋中にだツて、春から三人も生れたぢやありませんか。」
 と言《い》足した。近所から傳染病が出た故《せい》でもあることか、其處らに人が住むでゐるとは思はれぬやうに静だ。其の静な中《なか》に、長屋の隅ツこの方から、トントン、カラリ……秋晴の空氣を顫はせて、機《はた》を織る音かさも田舎びて聞えて來る。
 由三[#「由三」は底本では「山三」]は眼を瞑《つぶ》ツて、何んといふ纒《まとまり》のないことを考
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