私をお擇びなすツたのぢやありませんか。」
「然《さ》うだツたかな。」と空《そら》ツ恍《とぼ》けるやうに、ちらと空を仰《あほ》ぎながら、「とすりや、そりや俺《おれ》がお前を擇《えら》んだのぢやない、俺の若い血がお前に惚《ほ》れたんだらう。」
「それは何方《どつち》だツて可《よ》うございますけれども、私は何も自分から進むで貴方《あなた》と御一緒になツたのぢやございませんから、何《ど》うぞ其のお積《つもり》でね。」
「可《い》いさ、俺《おれ》もそりや何方《どつち》だツて可《い》いさ。雖然《けれども》是《これ》だけは自白《じはく》して置く。俺はお前の肉《にく》を吟味《ぎんみ》したが、心は吟味《ぎんみ》しなかツた。ところで肉と肉とが接觸したら、其の渇望《かつばう》が充《みた》されて、お前に向ツて更に他《た》の望《のぞみ》を持つやうになツた。而《す》るとお前は中々此の望を遂《とげ》させて呉れるやうな女ぢやない、で段々《だん/\》飽いて來るやうになツたんだ。お前も間尺《ましやく》に合はんと思ツてゐるだらうが、俺《おれ》も充《つま》らんさ。或意味からいふと葬《はふむ》られてゐるやうなものなんだからね。何しろ此の家《うち》の淋しいことは何《ど》うだ。幾ら人數《にんず》が少ないと謂《い》ツて、書生もゐる下婢《げぢよ》もゐる、それで滅多《めつた》と笑聲さへ聞えぬといふのだから、恰《まる》で冬の野《の》ツ原《ぱら》のやうな光景だ。」
「其《それ》は誰《たれ》の故《せい》なのでございませう。」
「誰の故《せい》かな。」
「私《わたし》は貴方《あなた》に無理にお願をしてバイヲリンの稽古《けいこ》までして、家庭を賑《にぎやか》にしやうと心掛けてゐるやうな譯ぢやございませんか。」
「其のバイヲリンがまた俺の耳觸《みゝざわり》になるんだ。あいにくな。」
「それぢや爲方《しかた》が無いぢやありませんか。」
「眞個《まつたく》爲方《しかた》が無いのさ。」
「ぢや何《ど》うしたら可《い》いのでございませう。」
「解《わか》らんね。要するにお前の顏は紅《あか》い、俺の顏は青い。それだから何《ど》うにも爲樣《しやう》のないことになつてゐる。」
爲樣《しやう》があらうが有るまいが、それは私《わたし》の知ツたことぢやない! といふやうな顏をして、近子《ちかこ》はぷうと膨《ふく》れてゐた。そして軈《やが》て所天《をつと》の傍《そば》を離れて、椽側《えんがは》を彼方《あつち》此方《こつち》と歩き始めた。俊男《としを》はまた俊男で、素知らぬ顏で降《ふり》濺《そゝ》ぐ雨に煙る庭の木立《こだち》を眺めてゐた。
此の突《つ》ツ放《ぱな》すやうな仕打をされたので、近子は些《ちつ》と拍子抜《ひやうしぬけ》のした氣味であつたが、何《な》んと思つたのか、また徐々《そろ/\》所天《をつと》の傍へ寄ツて、「貴方《あなた》は、何《な》んかてえと家《うち》が淋しい淋しいツて有仰《おつしや》いますけれども、そりや家に病身の人がゐりや、自然《しぜん》陰氣《いんき》になりもしますわ。」
別に深い意味で謂《い》ツたのでは無かツたが、俊男は何んだか自分に當付《あてつ》けられたやうに思はれて、グツと癪《しやく》に障《さわ》ツた。
「フム、其《それ》ぢや何《な》んだな、お前は俺《おれ》が此の家を陰氣にしてゐるといふんだね。」と冷靜に謂《い》ツて、さて急に激越《げきえつ》した語調となる。「成程《なるほど》一家《いつか》の中《うち》に、體の弱い陰氣な人間がゐたら、他《はた》の者は面白くないに定《きま》ツてゐる。だが、虚弱《きよじやく》なのも陰欝《いんうつ》なのも天性《てんせい》なら仕方がないぢやないか。人間の體質や性質といふものが、然《さ》うヲイソレと直されるものぢやない。俺《おれ》の虚弱なのと陰鬱なのとは性得《うまれつき》で、今更自分の力でも、また他《ひと》の力でも何《ど》うすることも出來やしない。例《たと》へばお前の頬《ほ》ツぺたの紅《あか》いを引《ひ》ツ剥《ぺ》がして、青くすることの出來ないやうな。」と細《こまか》に手先を顫《ふる》はせながら躍起《やつき》となツて叫ぶ。
「ま、貴方《あなた》も大概《たいがい》にしときなさいよ。私は貴方《あなた》の體の虚弱なことや氣難《きむづか》しいことを惡いとも何《な》んとも謂《い》ツたのぢやありません。ただ貴方《あなた》が家《うち》が淋しくツて不愉快だと仰有《おつしや》ツたから、それは誰の故《せい》でもない、貴方《あなた》御自身の體が惡いからと謂《い》ツたまでのことなんです。男らしくもない、弱い者いぢめも好《い》い加減《かげん》になさるものですよ。」とブツ/\いふ。其の態度が奈何《いか》にも冷《ひやゝか》で、謂《い》ふこともキチンと條理《でうり》が立ツてゐる。
俊男は其の怜《さか》しい頭が氣に適《く》はぬ。また見たところ柔和《にうわ》らしいのにも似ず、案外《あんぐわい》理屈《りくつ》ツぽいのと根性《こんじやう》ツ骨《ぽね》の太いのが憎《にく》い。で、ギロリ、其の横顏を睨《にら》め付けて、「然《さ》うか。それぢやお前は、俺《おれ》は馬鹿でお前が怜悧《れいり》だといふんだね。宜《よろ》しい、弱い者いぢめといふんなら、俺《おれ》は、ま、馬鹿になツてねるとしやう。俺《おれ》の方が怜悧《れいり》になると、お前は涙といふ武器で俺を苦しめるんだからな。雖然《けれども》近《ちか》、斷《ことは》ツて置くが、陰欝《いんうつ》なのは俺の性分で、書《しよ》を讀むのと考へるのが俺の生命だ。丁度お前が浮世《うきよ》の榮華《えいぐわ》に憬《あこがれ》てゐるやうに、俺は智識慾に渇《かつ》してゐる………だから社交も嫌《いや》なら、芝居見物も嫌さ。家を賑《にぎやか》にしろといふのは、何《なに》も人を寄せてキヤツ/\と謂《い》ツてゐろといふのぢやない。お互《たがひ》の間《なか》に暖《あつたか》い點《とこ》があツて欲しいといふことなんだ………が、俺《おれ》の家では、お前も獨《ひとり》なら、俺も獨《ひとり》だ。お互に頑固に孤獨を守ツてゐるのだから、從《したが》ツてお互に冷《ひや》ツこい。いや、これも自然の結果なら仕方が無い。」
「何故《なぜ》お互に獨《ひとり》になツてゐなければならないのでせう。」
「色が違ふからさ。お前は紅《あか》い、俺は青い。」
「それぢや何方《どつち》がえらいのでせう。」
「そりや何方《どつち》だか解《わか》らんな。何方《どつち》でも自分の色の方にした方がえらいのだらう。」
「恰《まる》で喧嘩《けんくわ》をしてゐるやうなものですのね。」
「無論|然《さ》うさ、夫婦といふものは、喧嘩をしながら子供を作《こさ》へて行くといふに過ぎんものなんだ。」
「では私等《わたしたち》は何《ど》うしたのでせう、喧嘩はしますけれども、子供は出來ないぢやありませんか。」
「恐らく體力が平均しないからだらう。お前からいふと、俺《おれ》が虚弱《きよじやく》だからと謂《い》ひたからうが、俺からいふとお前が強壯《きやうさう》過《す》ぎると謂《い》ひたいね。併《しか》し他一倍《ひといちばい》喧嘩《けんくわ》をするから可《い》いぢやないか。夫婦の資格は充分だ………他人なら此樣《こん》なに衝突《しようとつ》しちや一日も一緒にゐられたものぢやない。」
近子は成程《なるほど》然《さ》うかとも思ツて、「ですけども、私等《わたしたち》は何んだツて此樣《こん》なに氣が合はないのでせう。」と心細いやうに染々《しみ/″\》といふ。
「お互にスツかり缺點《あら》をさらけ出して了《しま》ツたからよ。加之《おまけに》體力の不平均といふのも重《かさ》なる原因になツてゐる。自體女は生理上から謂《い》ツて娼妓《しやうぎ》になツてゐる力のあるものなんだ、お前は殊に然《さ》うだ!」
近子は眥《きれ》の長い眼を嶮《けは》しくして、「何《な》んでございますツて。」
「ふゝゝゝ。」と俊男《としを》は快《こゝろよ》げに笑出して、「腹が立ツたかね。」
「だツて其樣《そん》な侮辱《ぶじよく》をなさるんですもの。」
「侮辱ぢやない、こりや事實だ。尤《もつと》も女の眼から見たら男は馬鹿かも知れん。何樣《どん》な男でも、丁度俺のやうに、弱い體でもツて一生懸命に働いて、強壯な女を養《やしな》ツてゐるのだからな。」
「其の代《かは》り女にはお産といふ大難《だいなん》があるぢやありませんか。」
「そりや女の驕慢《けうまん》な根性《こんじやう》に對する自然の制裁《せいさい》さ。ところで嬰兒《あかんぼ》に乳を飮ませるのがえらいかといふに、犬の母だツて小犬を育てるのだから、これも自慢《じまん》にはならん。とすれば女は殆ど無能力な動物を以《もつ》て甘《あま》ンじなければならん。ところが大概《たいがい》の男は此の無能力者に蹂躙《じうりん》され苦しめられてゐる………こりや寧《むし》ろ宇宙間に最も滑稽《こつけい》な現象と謂《い》はなければならんのだが、男が若い血の躁《さわ》ぐ時代には、本能の要求で女に引付けられる。此の引力が、やがて無能力者に絶大の權力を與へるやうなことになるのだから、女が威張《ゐば》りもすれば、ありもせぬ羽《はね》を伸《のば》さうとするやうになる。そこでさ、女は戀人として男に苦痛を與へると同時に歡樂《くわんらく》を與へるけれども、妻としては所天《をつと》に何等《なんら》の滿足も與へぬ、與へたとしても其《それ》は交換的で、而《しか》も重い責任を擔《にな》はせられやうといふものだから、大概の男は嬶《かゝあ》の頭を撲《なぐ》るのだ。簡明に謂《い》ツたら、女といふやつは、男を離れて生存する資格のない分際《ぶんざい》で、男に向ツて、男が女を離れて生存することが出來ないかのやうな態度を取ツてゐるのだ。現《げん》にお前だツて然《さ》うぢやないか。俺《おれ》が幾ら體が虚弱だからと謂《い》ツて、お前といふ女は、女といふ男を離れて、而《しか》も妻《つま》として立派に生存して行かれるか。ま、考へて見ろ、俺が死んだら何《ど》うする? 其の癖《くせ》お前は、俺の體が虚弱《きよじやく》だとか、俺の性質が陰氣《いんき》だとか謂《い》ツて、絶えず俺のことを罵倒《ばたう》してゐる、罵倒しながら、俺《おれ》に依ツて自己《じこ》の存立《そんりつ》を安全にしてゐるのだから、こりや狐よりも狡猾《かうかつ》だ。何《ど》うだ、お前はこれでも尚《ま》だ、體の強壯なのを自慢として、俺を輕侮《けいぶ》する氣か。青い顏は、必ずしも紅い顏に壓伏《あつぷく》されるものぢやないぞ。」と言訖《いひをは》ツて、輕く肩を搖《ゆす》ツて、快《こゝろよ》げに冷笑《せゝらわら》ふ。
近子《ちかこ》は唇《くちびる》を噛《か》みながら、さも忌々《いま/\》しさうに、さも心外《しんぐわい》さうに、默ツて所天《をつと》の長談義《ながだんぎ》を聽いてゐたが、「ですから、貴方《あなた》はおえらいのでございますよ。」と打突けるやうに謂《い》ツて、「それぢや、これからもう、家が淋しいの冷《ひやゝか》だのと有仰《おつしや》らないで下さいまし。無能力な動物に何も出來やう筈がございませんわ。」
「フム、他《ひと》の言尻《ことばじり》を攫《つかま》へて反抗《はんこう》するんだな。」
「いゝえ、反抗は致しません。女に反抗する力なんかあツて耐《たま》るものですか。」と澄《す》ましきツて謂《い》ツて、「時にもうお午《ひる》でございませうから、御飯をお喫《あが》りなすツては?………」
「俺《おれ》は尚《ま》だ喰ひたくない。」
「でも私《わたくし》はお腹が空《す》いて來たんですもの。」
「ぢやお前勝手に先に喫《た》べれば可《い》いぢやないか。」
「だツて、然《さ》うは參りません。」
「妙なことをいふね。お前は何時《いつ》もお午《ひる》をヌキにして、晩の御飯まで俺《おれ》を待ツてゐる次第《しだい》でもあるまい。」
「そりや然《さ》うですけれども、家《うち》にゐらツしツて見れば、豈夫《まさか》お先へ戴くことも出來ないぢやありませんか。加之《しかも》ビフテキを燒かせてあるの
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