があるさ。」
「ぢや、氣紛《きまぐれ》で私《わたくし》を虫干《むしぼし》になさるんですか。」
「然《さ》うさ、氣紛《きまぐれ》でもなけア、俺《おれ》にはお前を虫干にして遣《や》る同情さへありやしない。正直なところがな。」と思切《おもひき》ツていふ。感情が昂《たかま》ツて來たのか、瞼《まぶた》のあたりにぽツと紅《べに》をさす。
「其樣《そん》なに私《わたし》が憎《にく》いんですか。憎いなら憎いやうに………」と嚇《かつ》とした躰《てい》で、突ツかゝり氣味《ぎみ》になると、
「いや、誰も憎いとは謂《い》はんよ。憎いんなら誰に遠慮《ゑんりよ》も義理もあるもんか、とツくに追《お》ン出《だ》して了《しま》ふさ。俺《おれ》のは憎いんでもない[#原文まま]ければ可愛《かあい》いといふんでもない………たゞしツくり性《しやう》が合はんといふだけのことなんだ。趣味《しゆみ》も一致《いつち》しなければ理想も違ふし、第一人生觀が違ふ………、おツと、またお前の嫌《いや》な難《むづか》しい話になツて來た。此樣《こん》なことは、あたら口《くち》に風《かぜ》といふやつなのさ。」
「ぢや、すツぱりとお暇《ひま》を下すツたら可《い》いでせう。」
「そりや偶時《たま》には然《さ》う思はんでも無いな。併《しか》しお前は俺には用《よう》のある人間だ。」
「用なんか、下婢《げぢよ》で結構間に合ひますわ。」
「大きに御尤《ごもつとも》だ。だが下婢《げぢよ》は下婢《げぢよ》、妻《さい》は妻《さい》さ。下婢《げぢよ》で用が足りる位なら、世間の男は誰だツてうるさい[#「うるさい」に傍点]妻《さい》なんか持ちはしない。」
又かと思ふと氣持が惡くなつて胸が悶々《もだ/\》する。でも近子《ちかこ》は熟《じつ》と耐《こら》えて、
「然《さ》う有仰《おつしや》れば、女だツて仍且《やつぱり》然《さ》うでございませうよ。出來る事なら獨《ひとり》でゐた方が幾ら氣樂《きらく》だか知れやしません。」と冷《ひやゝか》にいふ。
「然《さ》うよ、奴隷《どれい》よりは自由民の方が好《よ》いからな。」
「然《さ》うですとも。」
「其《そ》んなら何故《なぜ》、お前は俺《おれ》のやうな所天《をつと》を擇《えら》んだんだ。」
「誰も貴方《あなた》を擇びはしませんよ。」と謂《い》ツて、少し顏を赧《あか》め、口籠《くちごも》ツてゐて、「貴方《あなた》の方で、私をお擇びなすツたのぢやありませんか。」
「然《さ》うだツたかな。」と空《そら》ツ恍《とぼ》けるやうに、ちらと空を仰《あほ》ぎながら、「とすりや、そりや俺《おれ》がお前を擇《えら》んだのぢやない、俺の若い血がお前に惚《ほ》れたんだらう。」
「それは何方《どつち》だツて可《よ》うございますけれども、私は何も自分から進むで貴方《あなた》と御一緒になツたのぢやございませんから、何《ど》うぞ其のお積《つもり》でね。」
「可《い》いさ、俺《おれ》もそりや何方《どつち》だツて可《い》いさ。雖然《けれども》是《これ》だけは自白《じはく》して置く。俺はお前の肉《にく》を吟味《ぎんみ》したが、心は吟味《ぎんみ》しなかツた。ところで肉と肉とが接觸したら、其の渇望《かつばう》が充《みた》されて、お前に向ツて更に他《た》の望《のぞみ》を持つやうになツた。而《す》るとお前は中々此の望を遂《とげ》させて呉れるやうな女ぢやない、で段々《だん/\》飽いて來るやうになツたんだ。お前も間尺《ましやく》に合はんと思ツてゐるだらうが、俺《おれ》も充《つま》らんさ。或意味からいふと葬《はふむ》られてゐるやうなものなんだからね。何しろ此の家《うち》の淋しいことは何《ど》うだ。幾ら人數《にんず》が少ないと謂《い》ツて、書生もゐる下婢《げぢよ》もゐる、それで滅多《めつた》と笑聲さへ聞えぬといふのだから、恰《まる》で冬の野《の》ツ原《ぱら》のやうな光景だ。」
「其《それ》は誰《たれ》の故《せい》なのでございませう。」
「誰の故《せい》かな。」
「私《わたし》は貴方《あなた》に無理にお願をしてバイヲリンの稽古《けいこ》までして、家庭を賑《にぎやか》にしやうと心掛けてゐるやうな譯ぢやございませんか。」
「其のバイヲリンがまた俺の耳觸《みゝざわり》になるんだ。あいにくな。」
「それぢや爲方《しかた》が無いぢやありませんか。」
「眞個《まつたく》爲方《しかた》が無いのさ。」
「ぢや何《ど》うしたら可《い》いのでございませう。」
「解《わか》らんね。要するにお前の顏は紅《あか》い、俺の顏は青い。それだから何《ど》うにも爲樣《しやう》のないことになつてゐる。」
爲樣《しやう》があらうが有るまいが、それは私《わたし》の知ツたことぢやない! といふやうな顏をして、近子《ちかこ》はぷうと膨《ふく》れてゐた。そして軈《やが》て所天《を
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