《い》つて勿論嬉しいといふやうなことも思ツて居らぬ。たゞ一種淋しいといふ感に強く壓付《おしつ》けられて、妄《むやみ》と氣が滅入《めい》るのであツた。
「何故《なぜ》家は此《か》うなんだらうと、索寞《さくばく》といふよりは、これぢや寧《むし》ろ荒凉《くわうりやう》と謂《い》ツた方が適當だからな。」と呟《つぶや》き、不圖《ふと》また奧を覗《のぞ》いて、燥《いら》ツた聲で、「喧《やかま》しい! おい、止《よ》さんか。其樣《そん》なもの………」と喚《わめ》く。
返事は無くツて、バイヲリンの音《ね》がバツタリ止む。
俊男はまた頽默《ぐつたり》考込むだ。絲のやうな雨が瓦を滑《すべ》ツて雫《しづく》となり、霤《あまおち》に落ちて微《かすか》に響くのが、何かこツそり囁《さゝや》くやうに耳に入る。
少時《しばらく》すると、
「貴方《あなた》、何を其樣《そん》なに考込むでゐらツしやるの。」
此《か》う呼掛けて、ひよツくり俊男の前に突ツ立ツたのは妻《さい》の近子《ちかこ》で。
俊男《としを》はヂロリ妻の顏を見て、「別に何も考へてゐやしないさ。」
「でも何《な》んだか妙な顏をしてゐらツしやいますのね。」
「そりや頭が重いからさ。ところへ上手《じやうず》でもないバイヲリンをギコ/\彈《や》られるんだから耐《たま》らんね。」
近子は些《ちよい》と嫌な顏をして、「それでも貴方《あなた》、何《ど》うかすると彈《や》れツて有仰《おつしや》ることがあるぢやありませんか。」
「そりや機嫌の好《よ》い時のことさ。」と輕《かろ》く眞面目《まじめ》にいふ。
「まア。」と近子は呆《あき》れて見せて、「隨分《ずゐぶん》勝手《かつて》なんでございますね。」
「當然《あたりまへ》さ。恐らく近頃の人間で勝手でない者はありやしない。」
「然《さ》うでせうか。」と空恍《そらとぼ》けたやうにいふ。
「然《さ》うさ。お前だツて俺《おれ》の大嫌《だいきらひ》なことを悦《よろこ》んで行《や》ツてゐることがあるぢやないか。現《げん》に俺《おれ》が思索《しさく》に耽《ふけ》ツてゐる時にバイヲリンを彈《ひ》いたりなんかして………」
「それは濟《す》みませんでしたのね。私《わたし》はまた此樣《こん》な天氣で氣が欝々《うつ/\》して爲樣《しやう》が無かツたもんですから、それで。」と何か氣怯《きおそれ》のする躰《てい》で悸々《おど/\》しながらいふ。
「然《さ》うかね。併《しか》し然う一々天氣にかこつけ[#「かこつけ」に傍点]られちや、天氣も好《い》い面《つら》の皮といふもんさ。」と苦笑《にがわらひ》して、「だが幾ら梅雨《つゆ》だからツて、此《か》う毎日々々降られたんぢや遣切《やりき》れんね。今日は日曜だから、お前と一|緒《しよ》に何處《どこ》へか出掛けやうと思ツてゐたんだが、これぢや仍且《やつぱり》家《うち》で睨合《にらみあひ》をしてゐるしかないな。」
「私と一緒に? ま、巧《うま》いことを有仰《おつしや》るのね。」と眼に嘲《あざ》む色を見せる。
「何故《なぜ》?………俺《おれ》だツて其樣《そん》なに非人情《ひにんじやう》に出來てゐる人間ぢやないぞ。偶時《たま》には妻《さい》の機嫌を取ツて置く必要もある位のことは知ツてゐる。」
「何《ど》うですか。隨分|道具《だうぐ》あつかひされてゐるんですからね。」
「そりや無論《むろん》道具よ。女に道具以上の價値《かち》があツて耐《たま》るものか。だがさ、早い話が、お前は大事な着物を虫干《むしぼし》にして樟腦《しやうなう》まで入れて藏《しま》ツて置くだらう。俺《おれ》がお前を連れて出やうといふのは、其の虫干の意味に過ぎないのさ。解《わか》ツたかね。」と無意味な眼遣《めづかひ》で妻《つま》の顏を見てニヤリとする。
近子は輕くお叩頭《じぎ》をして、「何《ど》うも御親切に有難うございます。」と叮嚀《ていねい》に謂《い》ツたかと思ふと、「ですが、其樣《そん》なにおひやら[#「おひやら」に傍点]ないで下さいまし。幾ら道具でも蟲がありますからね。」
「おい/\、何を其樣《そん》なに膨《ふく》れるんだ。誰もおひやり[#「おひやり」に傍点]はしないよ。」
「だツて貴方《あなた》、此の雨を見掛けて、見透《みえす》くやうなことを有仰《おつしや》るんですもの。ま、然《さ》うでせう、貴方《あなた》と御一緒《ごいつしよ》になツてから、もう三年にもなりますけれども、何時《いつ》の日曜に散歩でも仕《し》て見ないかと有仰《おつしや》ツたことがあツて? 何時《いつ》だツて家《うち》にばかり引込むで他《ひと》を虐《いび》ツてばかりゐらツしやるのぢやありませんか。」
全く然《さ》うでないとも謂《い》はれぬので、俊男《としを》は默ツて、ニヤ/\してゐたが、ふいと、「そりや人には氣紛《きまぐれ》といふもの
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