《びつくり》して冷汗《ひやあせ》を出しながら、足の續く限り早足に歩《ある》いた。
もし間違ツたら、終夜《よつぴて》歩いてゐる事に覺悟を定《きめ》てゐたが、たゞ定《きめ》て見たゞけの事で、中々心から其樣な勇氣の出やう筈が無い。其の間にだん/\氣が茫乎《ぼんやり》して來て、半分は眠りながらうと[#「うと」に傍点]/\して歩《ある》いてゐた。そして幾箇《いくつ》の橋を渡ツて幾度道を回ツたか知らぬが、ふいに、石か何かに躓《つまづ》いて、よろ/\として、危《あぶな》く轉《ころ》びさうになるのを、辛而《やつと》踏止《ふみとま》ツたが、それですツかり[#「すツかり」に傍点]眼《め》が覺めて了ツた。見ると今までの處とは、處が、がらり[#「がらり」に傍点]變ツてゐた。
「全體、此處《ここ》は何處《どこ》であらう。」
何處《どこ》だか解《わか》らぬが今まで來た覺の無い處といふだけは解ツてゐた。何《ど》うしたのか不思議や、其處《そこ》らが薄月夜の晩のやうに明《あか》るい。今まで眞《ま》ツ暗《くら》であツたのに不思議に明るい。豈夫《まさか》星光《ほしひかり》ではあるまいと思ツて見てゐると、確《たしか》に星光では無い。螢の光だ。
「大變な螢だ。」
と思はず知らず叫んで、びツくり[#「びツくり」に傍点]したといふよりは、呆《あき》れ返《かへ》ツて見てゐると無量幾千萬の螢が、鞠《まり》のやうにかたま[#「かたま」に傍点]ツて飛違ツてゐる。それに此處《ここ》の螢は普通の螢の二倍の大きさがある。それで螢の光で其處《そこ》らが薄月夜のやうに明いのであツた。餘り其處らが明いので、自分は始《はじめ》、夢を見てゐるのでは無いかと思ツた。餘り其處《そこ》らが奇麗なので、自分は始、狐に魅《ばか》されてゐるのでは無いかと思ツたけれども自分は、夢を見てゐるのでも無ければ狐《きつね》に魅《ばか》されてゐるのでも無い。確に正氣で確に眼を覺まして、其の螢を眺めてゐた。餘り美しくて、餘り澤山ゐるので、頓と捕《つかま》へて見やうといふ氣も起らない。自分はうツとり[#「うツとり」に傍点]として、螢に見惚《みと》れてゐると、
「おい、お前さんは、此處《ここ》へ何しに來たのだ。」
と突如《だしぬけ》に後《うしろ》から肩を叩くものがある。びツくり[#「びツくり」に傍点]して振返ると、夜目だから、能《よ》く判《わか》らぬが、脊の高い痩《やせ》ツこけた白髮の老人が、のツそり[#「のツそり」に傍点]と立ツてゐるのであツた。螢の薄光で、微《ほのか》に見える其の姿は、何樣《どん》なに薄氣味《うすぎみ》惡く見えたろう。眼は妙に爛《きら》ついてゐて、鼻は尖《とが》ツて、そして鬚《ひげ》は銀《しろがね》のやうに光ツて、胸頭《むなさき》を飾ツてゐた。
「お前さんは誰です。」と、自分は、おツかなびツくら[#「おツかなびツくら」に傍点]で訊《たづ》ねた。
「私《わし》かえ、私はの、年を老《と》ツた人さ。」と、底意地の惡さうな返事をして、自分の頭を撫《なで》て呉れる。其の聲は確《たしか》に何處《どこ》かで聞いたことのあるやうな聲だ。
自分は首を傾げて考へて見た。直ぐ足下《あしもと》には、小川が流れてゐたが、水面には螢の影が、入亂れて映《うつ》つてゐる。
「おゝ! 奇麗だ。」
と自分は熟《じつ》と流を見詰めると、螢の影は恰《まる》で流れるやうだ。
「何《ど》うだ、奇麗だらう。」と白髮の老人はさも自慢さうにいふ。何うも、其の聲は聞覺があるやうに思はれてならない。併し何《ど》うしても、誰の聲であつたか解《わか》らなかった。何處《どこ》かで梟《ふくろ》が啼出した。自分はぞつと[#「ぞつと」に傍点]しながら、
「此處は何んといふ處なんでせう。」
「此處かえ。」と老人は、洒嗄《しやが》れた、重くるしい聲で、「此處《ここ》はの、螢が多いから、螢谷といふ處だ。」
「えつ、螢谷ですつて?」
螢谷と聞《き》いて、自分は顫上つた。そして逃支度《にげじたく》をしながら、
「さ、大變だ!大變だ※[#感嘆符二つ、1−8−75]と泣聲になつて、騒立てる。
螢谷といふのは、自分の村を流れてゐる川といふ川の水源《みなもと》で、誰も知らぬ者の無い魔所であつて、何が棲《す》むでゐるのか、昔から其《それ》を知ツてゐる者が無いが、たゞ魔の者がゐると謂《い》つて夜《よる》になると誰も來ない事になつてゐた。固《もと》より其の邊に家と謂つては無い、谷も行窮つてゐて、其の谷の凹に少しばかりの山畑があるばかり、夜は何處を見ても松林と杉林ばかりである。自分の村から二里もあるのだから、
「私は何《ど》うして、此樣《こんな》な處へ來たのだらう。」
と不思議でならない。それよりはまだ、此樣な處で、白髮の老人に逢つたのが、更に不思議でならない。雖然《けれども》何んと
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