ネく物靜な、しんめりとした景色の中に、流の音が、ちよろ/\と響いてゐて、數の知れぬ螢が飛んでゐるところは實に幽邃《ゆうえん》であつた。それに何んの芬《かをり》だか解りませぬが、好い芬が其處ら一杯に芬《かを》つているので、自分は螢谷には、魔の者が棲むでゐるのでは無く、仙人が棲むでゐるのでは無いかと思つてゐた。
 私は、薄氣味の惡いのも、怖《こわ》いのも忘れて、美しい景色に心を引付けられて、
「奇麗な處だ!」と感歎しながら茫然していると、
「ぢや家へ歸らなくツても可《い》いか。」
 自分は急に悲しくなツて、「僕、家へ歸りたくツて爲樣《しやう》が無いんです。」
「でも、私が、お前が螢を挿《つかま》へるやうにお前を捕《つかま》へて了《しま》ツたら何《ど》うする。」
「え、私を捕へるんですツて?」と自分は泣聲になツた。
 老人は突出して「捕へられるのは嫌か。ぢや螢を放して了ひなさい。」
 自分は命令《いひつけ》通、直に螢を放して遣《や》ツた。老人は悦《よろこ》んで、「それで可《い》い、それで可い。では、私が、お前の家まで送ツて行ツて進《あ》げやう。だが、お前は、大分疲れてゐるやうだ。私が背負《おぶ》ツて行ツて進《あ》げる。」
 自分は疲れてはゐるし、第一眠くてならなかツたから、遠慮をしないで、早速老人の肩へ兩手を掛けると、老人はえんやらツと立起ツて、ぽツくりぽツくり歩き出した。自分は體《からだ》を搖られるので、何んとも謂へぬ好い心地になツて、うと/\と眠ツて了《しま》ツた。そして何時の間に家へ歸ツたのか、翌朝眼を覺して見ると、不思議や自分は何時もの室で安《やすらか》に寢てゐた。

     *     *     *     *     *

 これは夢であツたらうか。自分は其後も、幾度か螢谷といふ處へ行ツて見やうと思ツたけれども遂々行かれなかツた。否、行かなかツたのでは無い、行ツても見當らなかツたのだ。抑、彼の老人は何者であツたらう。之れは、永い間自分にも解らなかツた。併し自分がもう大人になツてから、其老人は自分の祖父樣《おぢいさま》であツた事が解《わか》ツた。



底本:「三島霜川選集(上巻)」三島霜川選集刊行会
   1979(昭和54)年4月8日発行
初出:「文庫」
   1906(明治39)年7月15日号
※新字と旧字の混在は、底本通りとしてました。
入力:小林 徹
校正:松永正敏
2003年12月6日作成
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