殘した金も滅茶々々になつて、僕は市井の間に埋つて了つた。
で、父から遺産どころか、荷厄介な遺族を殘されて、未だ力のない者が、其重荷を負ふてよた[#「よた」に傍点]/\と今迄遣つて來たのである。
それで、父に死別れたのは二十の時で、僕は神經衰弱になるし、不得要領の中に、一年と云ふ長い月日を滅茶苦茶の中に送つて了つて、そして二十一二の春ころまでは、書くでもなく、書かぬでもなく、貸してあつた金を取つたり、家財を賣つたり、誠に混沌たる生活をした。其間田中凉葉なぞと一緒に下宿したが、其中凉葉は紅葉先生の塾に行くし、僕は一人になつてごろツちやらして居たが、それではごろつき[#「ごろつき」に傍点]書生になると云ふので、叔母なぞが心配して、其一年ばかり前から心易かつた桐生悠々君の所へ行くことになつた。
桐生君は、僕の文學生涯には忘れることの出來ない人で、其所に行くまでは文學が好きであつたが、唯、意味も何も知らずバツとして居た。其時桐生君は法科の二年であつたが、始終シエークスピーヤだとか、トルストイなぞを説いた、僕はそれに依つて泰西の文學を知り、眞面目に文學を研究し眞面目な意味に文學を了解して來て、其所に三四月居る中に、何であつたか書き初めた。
それで、其時は最う生活費の方は盡きて、桐生君の所を出てから、七月ごろ七軒町へ家を持つて、翌年の四月まで、約十ヶ月其所に居つた。其時一家四人、露骨に云ふと殆んど三度の食事も食ひ兼ねた。それは、僕の最も暗黒時代で、未だ一家を支へるだけの腕はなし、頭は固らず、讀んで修養すべき書物はなし、不安恐懼に滿ちた生活をして居た。
其時のことである。名は差支へあつて言はれぬが、某と云ふ。僕の同郷の襌坊主と共に、食ふに困つて托鉢に出やうと云ふので、袈裟や衲衣もすつかり買つて、僕は經なぞ稽古したが、何分俄仕度くなので、どうもうまく[#「うまく」に傍点]覺えられない。それで證道歌の正心銘を紙に小さく書いて、笠の裏へ張つたものである。そして、市内では巡査が喧ましいから、府下を歩かうと云ふので、明日から愈々托鉢に出ると云ふことまですつかり定めて、總ての準備は整つたが、都合があつて止して了つた。
それから、何うしても、書かねば食へないやうになつて初めて書いたものが、「一つ岩」である。
次に書きかけたのは、長いものであつたが止して、其中に「埋れ井戸」と云ふもの
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