《このとき》ばかり、私《わたし》の心《こころ》は妙《めう》に其方《そつち》に引付《ひきつ》けられた。資本主《しほんぬし》と機械《きかい》と勞働《らうどう》とに壓迫《あつぱく》されながらも、社會《しやくわい》の泥土《でいど》と暗黒《あんこく》との底《そこ》の底に、僅《わづか》に其の儚《はかな》い生存《せいぞん》を保《たも》ツてゐるといふ表象《シンボル》でゞもあるやうな此《こ》の唄《うた》には、何《な》んだか深遠《しんえん》な人生《じんせい》の意味《ゐみ》が含《ふく》まれてゐるやうな氣がしてならなかツた。
けれども勞働者の唄は再《ふたゝ》び聽《きこ》えなかツた。只《たゞ》軋《きしめ》く車輪《しやりん》と鐵槌《てつつゐ》の響とがごツちやになツて聞《きこ》えるばかりだ。若《も》しや哀《あは》れな勞働者は其の唄の終《をは》らぬ中《うち》、惡魔《あくま》のやうな機械の運轉《うんてん》の渦中《くわちう》に身躰《からだ》を卷込《まきこ》まれて、唄の文句《もんく》の其の通《とほ》り、長《なが》くもない生涯《しようがい》の終《をはり》を告《つ》げたのではあるまいか。と、私《わたし》はこんな馬鹿氣《ばかげ
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