よう》の苦痛《くつう》のみなのだから、其の人《ひと》に取ツては或《ある》意味に於て寧《むし》ろ幸福《かうふく》であるかも知れない。讀書《どくしよ》は徒《いたづ》らに人の憂患《わづらひ》を増《ま》すのみの歎《なげき》は、一世《いつせい》の碩學《せきがく》にさへあることだから、單《たん》に安樂《あんらく》といふ意味から云ツたら其も可《よ》からうけれど、僕等は迚《とて》も其ぢや滿足出來ないぢやないか。そんな無意|義《ぎ》な生涯なら動物《どうぶつ》でも送《おく》ツてゐる。如何《いか》に何んでも、僕は動物となツてまでも安《やす》さを貪《むさぼ》らうとは思はないからな!」
 沈痛《ちんつう》な調子《てうし》で恁《か》う云ツて、友は其の幅《はゞ》のある肩《かた》を聳《そび》やかした。
「あゝ僕等は何うして恁う不幸《ふかう》なんだらう。精神上《せいしんじよう》にも肉躰上《にくたいじよう》にも、毎も激《はげ》しい苦痛ばかりを感じて、少しだツて安らかな時《とき》はありやしない。恁うして淋《さび》しい一生を送ツて行《い》かなきやならないかと思ふと、僕は自分《じぶん》の將來《せうらい》といふものが恐《おそ》ろしいやうな氣がしてならない。」
「眞《ほ》ンとに」と、友は痛く感じたやうな語調《てうし》で、「僕等の將來は暗黒《あんこく》だ。けれども其の埒外《らちぐわい》に逸《ゐつ》することの出來ないのが運命《うんめい》なのだから爲方《しかた》がない、性格悲劇《せいかくひげき》といふ戯曲《ぎきよく》の一種《いつしゆ》があるが、僕等が丁度《てうど》其だ。僕等の此《こ》の性格が亡《ほろ》ぼされない以上、僕等は到底《たうてい》幸福《かうふく》な人となることは出來ない。」
「けれども、」と私は口《くち》を挿《はさ》んで、「けれども其の一種の性格が僕等の特長《とくてう》なんぢやないか。此の性格が失《うしな》われた時は、即《すなわ》ち僕は亡《ほろ》びたのだ。然うしたら社會の人として、或《あるひ》は安楽《あんらく》な生活《せいくわつ》を爲《な》し得《う》るかも知れない。併《しか》し精神|的《てき》には、全《まつた》く死《し》んで了ツたのも同《おな》じことなんだ!」
「然うだ、其だから僕等の生涯は永久《えいきゆう》に暗黒だと云ふのだ!家庭《かてい》は人生《じんせい》の活動《くわつどう》の源《みなもと》である、と、人に依《よ》ツてはこんなことを云ふ者《もの》もある。成程《なるほど》、一日《いちにち》の苦|闘《とう》に疲《つか》れて家《いへ》に歸《かへ》ツて來る、其處《そこ》には笑顏《ゑがほ》で迎《むか》へる妻子《さいし》がある、終日《しうじつ》の辛勞《しんらう》は一杯《いつぱい》の酒《さけ》の爲《ため》に、陶然《たうぜん》として酔《え》ツて、全《すべ》て人生の痛苦《つうく》を忘《わす》れて了ふ。恁ういふことが出來たら、其は嘸《さぞ》樂しいことだらう。併しこんなことが果《はた》して僕等に出來るだらうか、少くとも僕等はそんなことを爲《な》し得《う》る素質《そしつ》を有《いう》してゐるだらうか。何《ど》うして思ひもよらぬことだ。」と少し苛々《いらいら》したやうな調子で、
「あゝ孤獨《こどく》と落魄《らくばく》!之《これ》が僕の運命《うんめい》だ。僕見たいな者《もの》が家庭を組織《そしき》したら何うだらう。妻《つま》には嘆《なげ》きを懸《か》け子《こ》には悲しみを與《あた》へるばかりだ。僕は、病床《びやうしよう》を侍《ぢ》して[#「侍《ぢ》して」は底本では「待《ぢ》して」]看護《かんご》して呉《く》れる、優《やさ》しい女性《ぢよせい》の手《て》も知らないで淋《さび》しい臨終《りんじゆう》を遂《と》げるんだ!」
 私は默《もく》して只《たゞ》歩《あゆみ》を運んだ。實際《じつさい》何《なん》と云ツて可いやら、些と返答《へんたう》に苦《くる》しんだからである[#「である」は底本では「でかる」]。友の思想と自分の思想とは常《つね》に殆《ほとん》ど同じで、其の一方の感ずることは軈《やが》て又《また》他方《たほう》の等《ひと》しく感ずる處であるが、今《いま》の場合《ばあひ》のみは、私は直《たゞち》に賛同《さんどう》の意を表《ひやう》することが出來なかツた。其の生涯の孤獨といふ考には心《こゝろ》から同情《どうじやう》しながらも、猶《なほ》他に良策《りやうさく》があるやうに思はれてならなかツた。少くとも自分だけは、もう些ツと温《あたたか》な、生涯を送りたいやうな氣がしてならなかツた。
 ふと眼《め》を我《わが》歩《あゆ》み行《ゆ》く街路《がいろ》の前方《ぜんぽう》に向《む》けた。五六|間《けん》先《さき》から年頃《としごろ》の娘《むすめ》が歩いて來る。曇日《くもりび》なので蝙蝠《かほもり》は窄《すぼ》
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