かりの間、天氣さへ好かツたならば、風早は其處に林檎を賣る少女の顏を見たのであツた。唯顏を見て心を躁《さわ》がせてゐたばかりで無い、何時か口を利《き》き合ふことになツて、風早は其の少女が母と兩人《ふたり》で市の場末に住ツてゐる不幸な娘であることも知ツた。
 處が一週間ばかり前から、不圖此の少女の姿が橋際に見えなくなツた。風早學士の失望は一と通で無い、また舊《もと》の沈鬱な人となツて、而も其の心は人知れぬ悲痛に惱まされてゐた。彼は其の惱を以て祖先の遺傅から來た熱病の一種と考へ、自ら意志を強くして其のバチルスを殲滅《せんめつ》しようと勤めて而して※[#足扁に「宛」、第3水準1−92−36、230−中段12]《あが》いてゐた。

   *     *     *

 解剖室に入るべき時間は疾《と》うに來たのであるが、風早學士は何か調べることがあツて、少時《しばらく》職員室にまご[#「まご」に傍点]/\してゐた。軈《やが》て急に思付いたやうに、手ばしこく解剖衣を着て、そゝくさ[#「そゝくさ」に傍点]と職員室を出て廣ツ場を横ぎツて解剖室に向ツた。其の姿を見ると、待構へてゐた學生等は、また更に響動《どよめ》き立ツて、わい/\謂《い》ひながら風早學士の後に從《つ》いて行く。
 雪は霽《あが》ツて、灰色の空は雲切がして、冷《ひやゝか》な日光が薄ツすりと射す。北國の雪解の時分と來たら、全《すべ》て眼に入るものに、恰《まる》で永年牢屋にぶち込まれた囚人が、急に放たれて自由の體となツたといふ趣が見える。で其處らの物象が、荒涼といふよりは、索寞として、索寞といふよりは、凄然《せいぜん》として、其處に一種人を壓付《おしつ》けるやうな陰鬱な威力があツた。暗澹たる冬から脱却した自然は、例へば慘憺たる鬪に打勝ツた戰後の軍勢の其にも似てゐる。其處に何んの榮《はえ》も無く、全てが破壞されて、そして放ツたらかされて、そして取ツ散かされて亂脈になツて、尚《ま》だ何んにも片付けられてゐない。見るから無慘な落寞たる物情である。早い話が、雪といふ水蒸氣の變換は、森羅萬象《ものといふもの》を全く眞ツ白に引ツ包むで了ツてこそ美觀もあるけれども、これが山脈や屋根に斑《まだら》になツてゐたり、物の陰や家の背後《うしろ》に繃帶《ほうたい》をしたやうに殘ツてゐては、何んだか醜い婦《をんな》の白粉《おしろい》が剥げたやうな心地
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