放浪の宿
里村欣三
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)午《ひる》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|好き《ハラショ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]
×:復元された伏せ字
(例)生血[#「生血」に「×」の傍記]
*:伏せ字
(例)一気に********************
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午《ひる》さがりの太陽が、油のきれたフライパンのように、風の死んだ街を焙りつけていた。プラタナスの街路樹が、その広い掌のような葉身をぐったり萎《すぼ》めて、土埃りと、太陽の強い照りに弱り抜いて見えた。
街上には、動く影もなかった。アスファルトの路面をはげしく照りつけている陽脚に、かすかな埃りが舞いあがっているばかりで、地上はまるで汗腺の涸渇した土工の肌のように、暑熱の苦悶に喘いでいるのだ!
この太陽のじりじり焼きつける執念深さから、僅かな木影や土塀の陰を盗み出して、そこにもここにも裸形の苦力《クーリー》が死んだように、ぶっ倒れていた。そして寝苦しく身悶えする肌に、食い散らされた西瓜や真桑瓜の種子が、おかまいなくこびりついた。
日幕《ひおい》を深くおろした商店は、まるで唖のように静まり返えって、あの業々しい、支那街に特有な毒々しい調子で響いている筈の算盤や銅貨の音さえも、珍らしく聞えて来なかった。幕の隙間からは、涎をたらして、だらしのない姿態で眠むりこけている店員たちの姿が見えた。蠅ばかりが、閑散な店の土間を一杯に、わんわんとかすかな唸りをたてて飛び廻っているだけだった。……
すると軈て、この熱射の街頭にぽつんと一つの影が現われた。その影は初めに、幅員の広い、ゆるやかな傾斜をもった大通りの果てに――恰度オレンジ色の宏壮な中国銀行の建物の下に、ぽつんと黒い一つの点になって出現したのであるが、その黒点が太陽の熱射の中を泳いで近づいて膨らみ切った時、それは日焼けのした、埃りまびれの若者が七月の太陽にゆだり切ってよろめいて来るのだった。噛み砕いた鉛筆の末端の様に、先端《さき》のほうけたステッキに、小さな風呂敷を結えつけて、それを肩にひっ担いでいた。その詰襟の黒ぽい洋服は汗と埃りに、ぐしょぐしょになって、而も余り大きくもない体格を引きずるように持て余まして、底のあいた編上靴で埃をまきたてながらよろめいて行った。すると、恰度彼のよろめいて行くアスファルトの大通りが、やがて二つに裂けて左右に岐《わか》れていた。その岐れ目の薄馬鹿の額のように間ののびた面積が、手際よく楕円形に積土《もりつち》されて、プラタナスの木株が植え込まれ、その上に四五脚の広告ベンチさえ曝《さら》されていて、この不体裁な大通りの致命的な欠陥を、その工夫が危く救いあげていた。この設計技師の苦心も、商いや仕事を抛り出してベンチの上に眠むりこけている不潔な苦力や路傍商人の不遠慮な侵入に他愛もなく踏みにじられていた。
若者はそこまでよろめいて行った時、ちょっと立ち停った。路を考えるようにも見えたし、また空いたベンチを捜し求めるようにも受取れた。だが、その何れでもなかった。彼の眼は、無料宿泊所の新らしい木札に、磯巾着のように吸いつけられたのだ! かすかではあるが、疲れ切った若者の顔には生色が動いた――その若者は木札の意味を読みとると、すぐに病院の柵に沿うて右側の路に折れて行った。
病院の柵が尽きると、埃の多い十字路になって、その向い側の一角はアカシヤの深い木立に蔽われて、支那風の土塀にかこまれた正念寺だった。正面に黒い門が開いていた。門柱の一方には『無料宿泊所』の看板があって『お宿のない人、職のない人は遠慮なくお越し下さい』と、親切な添え書きさえしてあった。
この寺院と斜《はす》かいになった十字路の角は、ロシヤ人の酒場《バア》だった。酒場と云ってもそれは、馬糞よりも下等な馭者や、もっとそれよりもひどい下層労働者達が、未製のカルバスや生胡瓜を噛って、安酒を呷ったり、牛の臓腑を煮出したスープを啜って飲み食いする劣等な飲食店であった。その店頭には蒲団の破目からはみ出たボロ綿みたいな髪の毛の小娘が、雑巾よりもひどいスカートから泥だらけの素足を投げ出して、馬鈴薯の皮を剥きながら、そのまま笊におッかぶさって居睡っていた。業慾そうな猶太《ユダヤ》系の赧ら顔の主人が、風の入りそうもない店の奥の薄暗いカウンターに、ボイルされた、ポテトーみたいに、湯気の吹きそうな寝顔を投げ出していた。
若者は注意深くロシヤ人の酒場を盗み見ながら、そのまま瞬間の思案もなく正念寺の黒門に吸われて行った。門のなかはアカシヤと楡の木立が自然のままに生い育って、その樹間はほの暗いほどの雑草に埋れていた。本堂に通じる路だけが、それでも白く掃き清められていた。
若者は二三歩よろめいて行ったが、ふと突然に立ち止った。ここにまで裸体の苦力が侵入して来て、木影の雑草のなかに、鯖みたいな物凄い人間の腹が無数に映ったからである。彼は感じ深い面持で、そのいぎたない風情を眺めた。そして無料宿泊所が、自分たち同国人にのみしか与えられない恩恵を、阿弥陀如来の広大無辺の教義に民族的な息窒りをすら感じながら、本堂脇の玄関に歩いて行った。
「ごめん下さい」と、彼は襖の端に投げ出された毛脛を眺めながら、二声ばかり呼んだ。すると泡喰いながら、毛脛がぴょこッと縮むと、白い腰巻一つの坊主が頭から這い出して来た。
「お世話になりたいと存じますが……」
無精髭の伸びた坊主が、迂散臭い眼付きで、若者の頭のさきから靴のさきまで眺め上げ、眺めおろした。
「何処から来た?」
坊主は木を折るように怒鳴った。
「は、奉天から」
「歩いてか?」
「え……」
「そこに帳面と硯があるので、原籍と姓名を書きとめておいて、向うの長屋で休むといい」
坊主は面倒臭く言葉半分に言い捨てて、とっとと奥へ戻ってしまった。
『お腹が減っているんですが、一口……』と思ったが、もう追いつかなかった。若者はぼんやり気の弛むのを感じた。
宿泊所と云っても、それは名ばかりのもので、貸家づくりの八畳一間きりの長屋だった。何んの目的のために、こんな貸家を宿泊所に潰したのであるか、その坊主の魂胆は言わずと知れている! 窓ガラスは破れ放題だし、畳はぼこぼこにほぐれていた。ペンキの剥げ落ちたドアに通じる路だけが、どうにか路らしく踏みにじられてある以外は、雑草が跳梁するままだった。恰もそれは雑草に埋れた破家《あばらや》の感じで、得体の知れない蔓草に窓も壁も蔽われて、更にこの宿泊所の陰鬱な零落者《おちぶれもの》の蔭を濃くするために、葉の繁ったアカシヤの木立が深々と枝を垂れていた。
若者は把手《ハンドル》の壊れたドアを開けて、薄苔の生えた土間に入って行った。忽ち蠅の群が、かすかな唸り声をあげて襲いかかった。
「ごめん下さい」
素裸の男が黙って顔をあげた。髭の濃い、だが穏かな面構の四十男で、ひどいトラホームを患っていると見えて、赤く爛れた脂っぽい眼付で、股の間に拡げた猿又の虱を潰していた。
「何処から来た。兄イ!」
その男は無表情な口のきき方をした。
「ええ、奉天から……」
「歩いてか?」
「ええ……」
男は再び無感動な動作で、虱を潰し始めた。が、ふと、「その兄イも一昨日大連から歩いて来たんだ」と、言って頤をしゃくって見せた。「二日三晩まるで死屍《しぶと》みたいに寝通しなんだ」
そう云ってまた、彼は無感動な顔付をした。その男の肱の向うに、その通りの青年が寝汗をかいて腹這ったままで眠むり落ちていた。黒々と日焼けのした顔は蒼白いむくれが来ていた。もういい加減に叩き起さなければ!
若者はごろりと横になった。眼の凹《へこ》むのを覚えた。
「飯は食ったか?」また男が問いかけた。
「いいえ、昨日から……」若者は情けない表情をした。
「そうか。そこの新聞紙をめくって見ろよ。胡瓜と黒パンがあらあな」
若者は咽喉から手が出るほど、飛びつきたかったが、もじもじせずにはいられなかった。――もっと適切に言うならば、この男の親切な言葉に対して、何かこう精一杯な、感謝の心持の溢れた言葉だけででも報いたかったからだ。
「遠慮するな。困った時はお互だよ!」
彼は相変らず無感動な表情で虱を殺しつづけた。
「有難うよ!」
若者は訳の判らない感動で、反って無技巧な言葉を単純な感激で押し出してしまった。新聞紙をめくって黒パンを手にした。香ばしい匂いがぷんと来る。――ざらついてはいるが、心持ねばついた福よかな、その感触は一体何日ぶりに経験する快よさであったろうか! 若者はともすると、瞼に溢れて来る涙を危ぶみながら黒パンの塊を二つに引き裂いて、ごくんと唾液を胸元深くのみこんだ。そして次の瞬間には、餓鬼のように貪りついていた。
若者が眼を醒したのは、翌日の夕方であった。一昼夜ぶっ通しに眠むり通して、まるで魂を置き忘れた人間のように、ふぬけた格好で起きあがった。何かの悲鳴を聞いたようにも、またそうでないようにも思われた。
ドアが忙しそうに開いたり、閉ったりした。まだ若者の知らなかった支那服の男、それに逞しい体格の黒眼鏡の男、虱をひねり潰していた昨日の男、それから大連から歩いて来たと云われる青年の四人が、それぞれ忙しく水を汲み込んだり、短刀を研いだり、子供を追い散らすために、怒鳴ったり喚めいたりしていた。
『何事だろうか』若者は不審に思った。生欠伸《なまあくび》を噛みしめながら土間におりて行くと、その足元にどたりと犬の死骸が落ちた。ドアの外から支那服が投げ込んだのだ。彼は吃驚《びっくり》して、飛び退いた。
犬はまだ撲殺されたばかりらしく、鼻面に生血[#「生血」に「×」の傍記]を垂らしていた。
「は、は、はッ。驚くな、御馳走するぜ!」
支那服は筋張った顔をてらてらさせて笑った。「若いの! よく寝ていたな。赤犬だ。頬べたが千切れるほど旨いぞ!」
「よう、出来た。誰れが料理《りょうる》んだ。支那服、貴様の腕前を見せろよ!」
逞くましい体格の黒眼鏡が、濡板と、研ぎすました短刀をひっ提げて這入って来た。そして抛り出した濡板の上に、短刀を突っ立てた。
「馬鹿! 貴様だよ」支那服が罵り返えした。だが、親しい間柄だと見えて、
「怖気づいたか」
「馬鹿ぬかせ!」
と、二つ三つ言い争った揚句、支那服が濡板の上に犬をひきずり上げた。ふと、黒眼鏡が、若者に気づいて、
「よう、起きたな。何処から流れた」と、親しみ深い笑いを見せた。
「え、奉天から。どうかお願いいたします」彼は柔順に頭を下げた。
「ほ、腹が減ったろう。今に腹一杯喰わすぞ!」
「え、どうぞ」
「出来上がるまで、上って休んでいなよ」
もうこの時、鮮かな支那服の短刀で動脈を切り開かれた濡板の犬は、まるで洗濯物のように胴なかを揉みしぼられていた。赤い生血[#「赤い生血」に「×」の傍記]が、小気味よく切口から溢れ奔って、それが濡板を染めて、五寸四方位の大きさに掘り抜かれた穴に流れ込んでいた。馴れ切ったものだ!
「どうだ。小気味よく流れ出すじゃねえか。赤い生血[#「赤い生血」に「×」の傍記]は気味のいいもんだな」
支那服が、うっとりした眼で、血のついた手を毛だらけにしながら、犬の胴を揉み抜いた。
「うむ。生血だぞ。その度胸で呑み干しちゃあ!」
血がすっかり絞り取られると、犬はぐったりと濡板の上に伸びて、毛並すらも青ばんでゆくように感ぜられた。白い眼をむいて、黒ずんだ昆布の裳《ひだ》を思わすようなギサついた口唇の横から、撲殺される刹那に、自分の歯で[#「歯で」に「×」の傍記]食いちぎったらしい血まみれの舌[#「血まみれの舌」に「×」の傍記]を、だらりと意気地なく吐き出していた。
水で手と短刀を洗い清めると、垂れさがって来る袖をまくり上げて、支那服が短刀の鋭い刃さきをずぶりと犬の顎に
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