差し込むと、その握った柄を力一杯に、しかも見事な手つきで尻のあたりまで切りさげておいて、その刃を逆に巧妙に使い分けて皮膚と肉のなかに差しいれて、見る見るうちに、一匹の野犬を血だらけの肉と皺くちゃな一枚の毛皮に引き剥がしてしまった。
 短刀が血糊をきって、再び閃めくと、腹部に一筋いれられた切目が、ぶくッと内側から押し破れて、一気に********************溢れるように犬の投げ出された四肢の間一杯に流れ出た。と、支那服の手が、その溢れ出た臓腑をかき分けて、胸骨の間に辷り込んで、二三度胸壁を指さきで抉ぐると、綺麗に二つの肺臓がはがれて、肝臓や胃袋などと一緒くたに濡板の上に掻き出された。そして大腸をたぐって、その最後の部分に刃がはいると、見事に肛門から切断されて、一抱えほどの臓腑が、ずるずると濡板を辷って、血を絞り捨てた同じ穴へ雑作もなく落こってしまった。その上に、支那服が砂を後足でかぶせてしまうと、もうすっかり食慾を唆る肉塊以外の何物でもなかった。
 大腿部の関節に、短刀の刃が食い込んで、骨と刃物の音が軋むと、ぼろりと訳もなく肢が完全に離れた。ここまで一気に、見事な冴えを短刀の刃さきに見せて、料理つづけて来た支那服が、その肢を黒眼鏡に投げつけると、
「おい! 骨をはずせよ!」と、始めて怒鳴った。
「よし、手伝おう」こう叫ぶと黒眼鏡は、始めて支那服の使い動かす刃物から眼を反らした。そして『ふうーッ』と、感嘆の吐息をついた。虱をつぶした男と、大連から来た青年が、水を汲んだり、薪を拾い集めたりしていた。
 またしても、近所中の子供が、木の枝によじ、窓にぶらさがって、あるいはドア一杯に押し寄せて、好奇心に燃える眼を瞠って、この野人達の獰猛な料理に片唾をのんでいた。
「うるさい!」
 ふいと、出し抜けに支那服がこう叫ぶと、叩き切った犬の首を、子供の群に力一杯投げつけた。
「わあッ!」
 子供たちは、一目散に逃げ散った。そして臆病そうに、この光景を遠巻きにした。
「犬殺し」
 と、口々に罵りつづけていたが、やがてその怒罵が「お坊さんだ! お坊さんだ!」と、囁き声にかわると、安心しきって、またしても子供の群が、坊主と一緒にドアに溢れ込んだ。坊主が、そこに現れる前に、癇癪の方がさき走って来たような具合に、坊主はその無精たらしい面をドアに覗けないうちから、
「無茶だ。無茶だ。まるで畜生道だ!」と、喚めき込んで来た。
「出て行け! 出て行け! 出て行って貰おう。お前たちを一刻もここにおいておく訳には参らぬ」
 お坊さんは劇しい逆上で、息切れがしてしょうがないように、眼と鼻と口で一緒くたに息を吸い込んだ。
「ふ、ふん……」
 支那服がお坊さんの袖の下でくすりと笑った。
「まるで餓鬼畜生だ。飼犬を殺して、あろうことか、この尊い仏地を穢して煮て喰おうというのだ。浅間しい畜生道の仕業だ。お前等のような堕地獄の徒輩《やから》は一時も、ここに置く訳には行かん!」
 黙って骨をはずしていた黒眼鏡が、
「喧ましいわ! 糞たれ坊主!」と、ふいに喚めき唸めいたかと思うと、握っていた骨を土間に叩きつけた。「糞、豚小屋みたいな空屋に俺たちを叩き込んで置いて、手前は寄附を強請《ゆす》って世の中の人間を瞞しこんでいるんじあねえか。利いた風な口を利くねえ!」
「よし。貴様、よく覚えていろ! このわしの手に仕末ができなければ、ちゃんと警官がある。きっと追払ってくれる。追い出さずに我慢がなるものか!」
「おお! やって見ろ! 野良犬の替わりに、こんどは手前の番だ! 濡板に這いつくばって後悔するな」
 血だらけの短刀が、支那服の手からさっと閃めいて、壁の腰板をぐさっと突通した。坊主はぴょこっと頭をかがめたかと思うと、そのまま逃げ出してしまった。後も見ずに!
 坊主は、その後再び無精髭を覗けなかった。

 酒場《バア》の主人は『赤』であるのか『白』であるのか、まるで見当がつかなかった。商売でさえあれば、一枚五厘にもつかない銅幣《ドンペイ》を五枚も投げ出せばそれで充分なスープを、たった一杯だけしか啜らないお客であっても、彼は因業な眼尻を細めて、にこついた。
 大連から歩いて来たという男は、ロシヤ人をさえ見れば、女の臀に見惚れるように、その憂鬱な瞳に、憬がれの閃めきをちらつかせた。
 彼は大連から飲まず喰わずに歩きとばして来て、その惨憺たる苦労にも懲りずに、まだこれから、地図だけで見ても、牛の鞣皮《なめしがわ》みたいに茫漠として見当もつかないロシヤという国へ線路伝いに歩きかねない意気込をもっていた。彼はこの二三日炎天の乾干みたいになって街中を歩き飛ばしていたが、何処でどう捜し求めて来たのか『カルバス』の行商をやっていたが、その売り上げの全部はこの赧顔の強慾な酒場ではたいてしまうのだった。
 また彼はどこかで、いつ習い覚えて来たのか知らないが、『ボルシェビキイ』だの『カリーニン』だの『ブハリン』だの、または『イリッチ・レエニン』だの、それから『ハラショ』に『スパシーバ』ぐらいの露西亜語を、支那語と一緒くたに使いまくって、得体の知れない気焔を、誰れかれの差別なく、強慾な主人をでも、生れ落ちた時から馬小舎の悪臭から抜け切ったことのないような馭者、また何処でどう一日一日を喰って行くのか、まるで見当のつかないような素足の露西亜人をよく掴まえては吹っかけて、『ボルシェビキーは|好き《ハラショ》』だの『帝政派は|嫌いだ《ネ・ハラショ》』だのと、まるで鶏の尻から臓腑をひき出すような手付で、無我夢中で興奮していた。
 露西亜人たちは、その野放図もない胴体で、ちょっとばかり力を入れれば、押し潰れそうな手製の貧弱なテーブルを股の中に抱き込んで、しかも雀の涙ほどのウォツカの杯《グラス》を見つめながら、この道化者の気狂いじみた興奮を猫脊に微笑んでいるのだった。そして彼にはそういう怪物みたいな露助が、一言の反対もなく彼の気焔に微笑んでいてくれることが、何よりも嬉しいと見えて、それだけでもう充分に有頂天になれて底抜けた興奮に駆り立てられずにはいなかったのだ。
『大連』は全く交尾期《さかり》のついた馬みたいに荷馬車を蹴飛ばして、シベリヤの曠野を突走りかねない量見を抱いているらしかった。それはまるで途方もない心掛けだ!
 若者はこの『大連』がそういう途徹もない量見と、気狂い染みた情熱をもっていようとは夢にも知らなかった。
 第一大連は、若者が豚小舎みたいな宿泊所に辿りついた時に、虱を潰していた男が、痴呆症みたいに二日三晩も寝通したと言ったし、その上支那服が野犬を料理《りょう》る時に、彼は憂鬱に黙りこんで、水汲みにぼい使われていながら不服そうな面も出来なかった。それに暇さえあると、誰れの話にも割り込もうとはせずに、無口な面構えで寝転んでばかりいた。
 其彼に、こんな気狂じみた情熱があろうとは! 若者は夢にも知らなかったのだ。
 黒眼鏡が酔いつぶれる時に、きまってあげる『オダ』に依れば、彼はどうにもしようのないやくざ者で、人の女房と姦通して、おまけに亭主の頭の鉢を金テコで打破って、無期徒刑を喰ったのだが、御大典のおかげで、二度と出られる筈のなかったこの社会に舞い戻って来たという札つきの『金スジ』だった。それにまだ懲りずに、彼奴はそのやくざを自慢の種にして、この人生を金テコでぶちのめすような滅茶な調子で、押しまくって生きようとするのだ!

 その日は暑かった。太陽がカッと照らしつけている表へ、女の毛を投げ出せば『じじッ』と燃え上ってしまいはしないかと思われるほどだった。
 若者は何処をほうついても仕事がなかった。それで彼は飢え死する覚悟を決めたような悲痛さで、癇癪腹をかかえて宿泊所に舞い戻ってはね転がった。すると、時計の直しが見つからないで剛腹をかかえ込んだ、糜《ただ》れた脂っぽい眼付の男も、同じように樫の木のように固たそうな脛を投げ出して寝転んでいた。
 そうだ。若者が流れ込んだ時に、この虱を潰していた男は時計屋だった。
 この男は時計の修繕を拾いながら、それで世界を流して歩こうと云う、また滅相もない野望をもっているのだ。この時計屋の話によれば、可愛いい女房が、のびたうどん[#「うどん」に傍点]みたいになって、あの世へくたばった日から、店を畳んでしまって、その途徹もない野心を、学生鞄のなかにネジ廻しや、人形の靴みたいな金鎚と一緒くたに納い込んで、もう五年この方流浪しているのだと云う――。この男のその気持はまるで解らない。支那服は雑作もなく(なあに、女房の死霊に、魂をあの世へかッさらわれたのさ。それでフヌけた訳さ)と、簡単に片付けたが、或いはそうかも知れない。
 若者が荷厄介な古行李同然の調子で、自分の体をやけ糞に投げ出すと、びょこッと時計屋が折れ釘のように、起きあがって手を伸ばした。
「若いの! 三銭ばかりないか。腹が減ってしようがないんだ」抜毛のように頼りない声を出した。
「三銭どころか。この通りさ」若者は両手をはたいて見せた。
「そうか」
 折れ釘はまたそのまま倒れた。
 そしてそれっきりで二人がうとうととしかかった時、絞め損った鶏を飛ばしたような消魂《けたたま》しさで、引き裂かれるような悲鳴が、耳のつけ根で爆発した。同時に、若者と時計屋がはね起きた。
 すると、どうだ! 短袴子《タンクワツ》の赤い腰紐を引き※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]られたままで、ぐるりと羽二重餅のような*******修理婦が、そこら中に糸巻きや針や鋏などを一面に投げ散らして、あがき喚めきたてながら、***の黒眼鏡に****************――それはまるで一秒間と***********さであった。
「いやあッ!」と、魂をさらわれて、豆腐粕みたいにフヌケ切った時計屋でさえも、脂だらけの、はっきり見分けのつきそうもない眼玉を、南瓜頭と一緒くたに、樫の木みたいにごつごつした股倉につッ込んでしまった位だ。
 若者はただ、火花のようにカッとした。それでそのまま、焼火箸に尻餅をついたような撥ね上がりかたで、闘犬みたいな唸り声をたてて黒眼鏡に夢中で飛びかかった。それまではよかったが「うぬ!」と、相手が短かく喚めいたと同時に、彼はドアの外へ右から左にそのまま吹ッ飛んで、雑草のなかに********ぶざまな格好で丸まってしまった。そして気がついた時、若者は焼火箸を尻の下に敷いた時よりも、もっと素迅い動作と、地球の外へ吹ッ飛ぶような覚悟で遁げ出した。一体どうしたというのだ!
 正念寺の門前には、露西亜の酒場があることに変りはない。
 だが、今日という今日こそ『大連』は、カルバスの元も子もすっかり綺麗薩張りと、ウォツカの酔いとひっかえてぐでんぐでんに酔払っていた。
「タワリシチ!」こう怒鳴ると、脂っぽい針松の木椅子を蹴とばして、彼は鉄砲玉のように吹っ飛んで行く若者を、かっきりと釘抜きみたいに抱き留めてしまった。
「飲め! タワリシチ! 飲め!」
 彼は漬菜のように度肝を抜かれた若者を、わ、は、はッ、わ、は、はッ! と牛の舌みたいな口唇を開いて笑い崩れている豚の尻みたいに薄汚いロシヤ人の群のなかに突き飛ばした。
「|日本人よろしい《ヤポンスキイ・ハラショ》!」
「ボルシェビイキ、ハラショウ!」
 その薄汚いロシヤ人が、一斉に手を求めた。若者はこの毛だらけの、馬の草鞋《わらじ》みたいな、途方もなくでっかい[#「でっかい」に傍点]無数の掌の包囲に、すっかり面喰ってしまった。
 大連はもう仕末におえない程酔払っていた。
「飲め。畜生! 飲め。俺は自由を愛するんだ。俺は自由の国ソビエット・ロシヤを誰よりも愛するんだ。糞! いいか。よく聞け、俺は。俺はだ。家風呂敷みたいなロシヤで、自由に背伸びをして生きたいんだ。いいか。さあ、若いの飲むんだ!」
 若者はすっかり煙に巻かれてしまった。が、また彼奴は彼奴で、性根の据らない小盗人みたいに、たったいま[#「たったいま」に傍点]はじける程に蹴とばされた睾丸のことも、鉄砲玉のように遁げ出したこと
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