も、すっかりけろりと忘れてしまって、酔払った大連が差し出すウォツカを呷り始めたのだ。
そして直ぐに、大連の酔いに追い着いた。
「そうだとも!」若者は出し抜けに叫び出した。何がなんだか判らない癖に、彼はよろめく脚を、そこいら中の露西亜人の長靴や、破れズボンにぶちつけながら、
「そうだとも! 兄弟。ふん、浮草みたいに何処をうろつこうともだ。いいか! 根なし草じゃあるまいし、ちゃんと住み心地のよさそうな土地に根をおろそうてな心構は、ちゃんと、なあ兄弟、しっかり握っていようじゃねえか。馬鹿にすんねえ! 間抜け奴。一体どこの国の土地がよ、この俺の口を食いつないでくれたんだ。へん。立ン坊じゃあるまいし、ちゃんと腕があるんだ。俺の腕を知らねえか。左官の藤吉を知らねえのか。この間抜け露助奴!」
彼は酔った。怒鳴る本人すら訳の解らない啖呵を吐き出しながら、顔中を赤貝みたいにむき出して、笑い崩れるロシヤ人のテーブルを泳ぎ廻った。
『若いの』は左官だったのだ。彼がステッキに結びつけていた風呂敷は、コテとコテ板の商売道具だったんだ。その左官が黒のよごれた詰襟の洋服と、破れ靴で流れ歩いているんだが、それは全く二目と見られた態《ざま》ではない!
植民地の風習というものは何故に、こうもいなせ[#「いなせ」に傍点]な職人の風俗を、泥溝《どぶ》からあげた死鮒みたいに、すっかり威勢のないものにしてしまわなければ承知しないのか!
だからこそ、支那人に内地人の労働力が、邪魔っけな石塊《いしころ》みたいに、隅の方に押しこくられずにはいないのだ。洋服が決して、民族的矜持にはなりはしないのだ。気を付けろ!
怒鳴るだけ怒鳴ると、左官も大連も、ゆで上げられた伊勢海老のように、曲がるだけ頭を股倉に曲げ込んで、ぬるぬると吐き出された肉片や、皿からこぼれ落ちたスープに辷べる土間に坐り込んでしまった。
この死屍みたいに酔つぶれた酔どれを眺めると、赧ら顔の酒場の亭主が因業な本性を出して、不気嫌な声で怒鳴り出したものだ。まるで病み呆けた野良犬を追いまくるような汚ならしさで、支那語と露西亜語で喚めき立てた。商売気を離れると、こうも因業な表情になるものか、全く不思議な位だ。
「|出て行け《ゾバ》!」
牛のように喚めき立てた。古綿をかぶったような髪の毛の小娘が、少しでも手をゆるめると尻の穴でも嘗めかねないほど、嫌に曲がりたがる酔どれの首筋から両手一杯に、二人の洋服の襟を引きちぎる程引きずり出していた。
「お帰りなさいな」
小娘はそう云っているに違いなかった。娘という者は、強悪な親爺みたいに、獣のように悪態を吐く筈がない。
娘が少しでも、油断すると酔どれは自分の尻を嘗めようとした。もう何んとしても、彼奴等には、海泥のように性根がないのだ。
ウォツカの雫で濡れ放題のカウンターを、その団扇《うちわ》みたいな手で歪むほど打ちのめすと、尻尾を踏んづけられた狼のような唸り声をたてて、蹴倒した木椅子を両脚で突き飛ばしながら、亭主が巨大な図体を癇癪の筋だらけにして飛び出して来た。そして小娘の手から酔どれの襟首をひったくると、躄車《いざりぐるま》みたいに往来に引き出して行って、そして二人を同時に鉋屑のように抛り出した。
「|出て行け《ゾバ》!」
と、たんまり儲けたことは忘れて、支那語で酔どれをケン飛ばしかねない権幕で喚めいた。
大連は彼の愛するロシヤ人から、こんな待遇で酬いられたことを知ったら最後、シャベルでロシヤの国土を地球の外へはね出しかねない調子で地団駄踏んで口惜しがるに違いない。
(彼奴は、白のスパイに違いないのだ!)
二人の酔どれが、眼を醒ました時には、酔払わない前と同じように、真昼間だった。太陽が焼けていた。風がちっともなかった。ただちょっと頭がふらついた。――この辺から少し昨日と変っている。汗ばんだ肌が、砂利でこすったように痛かった。咽喉が乾いた。
何んだか少し世界の角度が狂ったような訝かしさを、二人は宿酔《ふつかよい》の頭に感じなければならなかった。
周囲の記憶が、少しもなかった。――無理もない。彼等は宿泊所の畳の上で目醒めたのだ!
彼等はすっかり時の経過と、生命の流れの一部分を忘却していたのだ。彼等の二人は、握手をかわした馭者や、乞食みたいなロシヤ人によって、タワリシチの礼をつくすために、この宿泊所へ運び込まれたことを少しも知らなかったのだ。若しも大連が、そのような親切な介抱を、彼の愛するロシヤ人によって受けた事実を知ったならば、彼は骸骨になってでも東支鉄道の線路を伝いつづけて、彼の愛するロシヤに突走る覚悟を決めたであろう。
左官は一度目を覚ましたが、また寝こんでしまった。はっきりほんとに眼を覚ましたのは夕方であった。
大連がいなかった。だが、そんなことは少しも不思議ではない。腹が減って仕方がなくなると、誰にしたって夜鷹のように餌を拾いに出掛けなければならない。だが――一つ驚いたことに、大連のかわりに、黒眼鏡がすぐ傍で、大安坐《おおあぐら》をかいて、黒パンの大きな塊りを片腕に抱え込んで、それを襤褸巾《ぼろきれ》のように引き裂いて、豊かに頬張っていた。
左官は頬ペタから、骨が抜け出るほど青くなって、そのまま縮んでしまった。
「おい! 若いの。眼が醒めたか?……ところでお前は馬鹿だな。何んで昨日は俺にむかって来たのだ」
そら! 左官はまるで針鼠のように震えあがってしまった。黒眼鏡は唾の足りない口から、パン屑をぼろぼろこぼしながら、ゆっくり責め抜こうとするのかも知れない。
「時計屋はな。お前。魂のかわりに、こんどは骨ぐるみさらって行かれそうな声をたてて***********おとなしく待ってらあ、手前にも*********有りつかすんだったのに! 馬鹿だなあ」
左官は驚いた。こんな筈である道理がない! 彼はそろそろ首を伸ばした。
黒眼鏡は何んとも思ってはいないのだ。かえって彼のあの気狂い染みた突嗟の気持を、まるで憫笑しているのだ。でも、左官はさように遺恨も含まずに、憫笑する黒眼鏡の気持がまるで判らないと考えた。
「ほら、喰え!」
どたりと引き裂いた黒パンの塊を、彼の頭を目蒐《めが》けて投げ出した。
「この男はまるで、俺たちを歯牙にかけていないのだ。まるで太平洋のような度胸だな」
単純で感じ易い左官は、涙にあふれるような感動を我慢して、黒パンの塊に手を伸ばした。
「どう考えても、黒眼鏡の気持は判らない」
左官は自分の芥子粒《けしつぶ》みたいな肝ッ玉に較べて、そう考え悩まずにはいられなかった。
尊敬の念が、油然《ゆうぜん》と湧いて来た。
支那服は野良犬の塩焼きと、一升ほどの高粱酒《カオリャンチュ》を相宿の連中に大盤振舞いして酔つぶれた翌朝から、ずっと姿を見せなかった。
「支那服と黒眼鏡は、一体どうして食っているんだろう?」
彼は不思議に考えた。だが、二人の存在は左官の貧弱な想像力では、壁坪を測り出すようには、雑作なく想像することはできなかった。そんなことを考えているところへ、当の支那服がのっそり帰って来た。油だらけの新聞紙をほごすと、焼きたてのロースビーフが、碁盤のように転がり出た。素晴らしい匂いが鼻から尻の穴へ抜け出るようだった。
「よう! 素敵じゃあねえか」
この二人はいつでも肌身はなさず短刀を身につけていると見えて、黒眼鏡は食いかけの黒パンの破片を抛り捨てると、早速に支那服と向い合って短刀の刃でロースビーフの角を切り落して、頬ばり始めた。口中を油だらけにして、旨そうに眼玉を白黒させた。
「黒パンに、生胡瓜か。見っともない真似はよせよ! まさかにどぶ鼠[#「どぶ鼠」に傍点]じゃあんめえし……」
支那服が、皮肉に黒眼鏡を笑殺した。
「糞! 抜かすな」
黒眼鏡はそんな皮肉に応酬するよりも、咽喉一杯に、雑巾のように押し込んだビーフに手古擦《てこず》っていたのだ。
ふと、支那服が左官を見つけて、思い出したように言った。
「おい! 手前は昨日、ほら門前のロシヤ人の酒場で酔いつぶれたろう。大連はお前、たった今、領事警察に引っこ抜かれたぞ! ここらの『白』は皆んなスパイだ。滅多なことは喋舌《しゃべ》れねえんだ。それに気を配ばらずに、小僧っ児みたいな、気焔をあげるのが、ドジさ。大人気ない話よ。網んなかで跳ね廻わるようなもんじゃねえか。馬鹿な」
だが、左官は皆目、その支那服の言った意味が解らなかった。
「ほう。社会主義者だったのか。彼奴が」
黒眼鏡が興味深く訊き返えした。
「社会主義者だって、何れ大したもんじゃああんめえよ!」
支那服も黒眼鏡も、それっきりその話をやめてしまった。そして喰うだけ喰うと、二人は連れだって、暮れかかった街に出て行った。
「まるでこっちとらとは、泥亀とすっぽんほどの違いだ。豪気なもんだ」
左官は、暗くなった部屋のなかで、ビーフの食い残しをつまみあげながら呟いた。
彼等と擦れ違いに、時計屋が洞穴《ほらあな》のように糜《ただ》れた眼玉を窪ませて帰って来た。
「骨ぐるみかッさらって行かれそうに、********!」
左官は黒眼鏡の言葉を思い出して、こみあげてくる笑いを殺すことが出来なかった。
二人は彼等の喰い残しのロースビーフに噛りついたのが、御馳走の最後だった。
それっきり支那服も、黒眼鏡も帰って来なかった。無論のこと大連も、それっきりだった。――
時計屋と左官の上には、がらりと生活が向きをかえた。二人の上には再び、あのにぎやかな生活が帰らないのだ。零落と流浪の絶望が眼に見えない手を拡げ始めた。
左官には、大連の情熱に満ちた夢がなかった。
時計屋には支那服の、あの度胸がなかった。
坊主が怖気づいていた、黒眼鏡と支那服がいなくなったので、乾干になりかかった時計屋と左官を取っ掴まえて、日毎に怒鳴り込んで来た。
「出て失せろ! 強姦[#「強姦」に「×」の傍記]はする。犬はぶち殺して喰う。社会主義者は舞い込む。何んという畜生共だ。穢らわしい人非人奴! 出て行け。ここで死んでみろ。忽ち真逆《まっさか》さに御堂の下は無間地獄の釜の上だぞ! 恐しかったら、一刻も早く出て失せろ」
坊主はまるで青鬼のように、半分死にかかった人間の前でたけり立った。
「人間は死んだら最後、お寺に来るより外に仕様があるか。ちょっと一足さきに来ただけじあないか!」
時計屋が最後の声をふり絞って、怒鳴り返えした。
坊主はそのまま身震いすると、髑髏《しゃれこうべ》のように肉を震い落さんばかりに、慄いあがって怒った。――だが、まだ息の根はとまらない二人を、そのまま墓場へ持ってゆく訳には行かなかった。
突然に、殺人事件が惹き起された。
この街一流の日本人商館が、二人組の強盗に襲われたのだ。被害者は薬種商だった。手広く密輸入をやっているという評判が、この街の公然の噂だった。
強盗に反抗した亭主は、短刀の一撃で胸を抉ぐられて、金庫にしがみついたまま即死した。***店員たちが縛りあげられた、その眼の前で女房を強姦し[#「女房を強姦し」に「×」の傍記]その上五千円近い金を掠奪された。
店員や女房の証言で、その犯人は日本人であることに間違いはなかった。犯人は踪跡をくらまして、まだ逮捕されなかった。
乾干になって、もうここ一二日の生命が危いくらい弱り抜いていた左官に時計屋は、寝たきりなので、その事件を知る筈がなかった。
領事警察の刑事隊が、変装して用心深く小半日も張り込んだ結果、とっつかまえた代物は、自分で自分の身体さえ支え切れないほど弱りこんだ、この二人だった! この左官に時計屋が、強盗殺人強姦の犯人であるとは――何んと立派な手柄であることか!
坊主は黒い門柱から、無料宿泊所の看板をひっぺがした。そしてまるで土方のように、それを踏み破った。
こんな慈善ぶった看板で金を強請ろうとかかったことが、そもそもの誤りなのだ。
お天んとうさまに唾を吐いて見ろ! そっくりそのまま手前の坊主面に戻って来るんだ。
[#地から1字上げ]――
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