を噛みしめながら土間におりて行くと、その足元にどたりと犬の死骸が落ちた。ドアの外から支那服が投げ込んだのだ。彼は吃驚《びっくり》して、飛び退いた。
犬はまだ撲殺されたばかりらしく、鼻面に生血[#「生血」に「×」の傍記]を垂らしていた。
「は、は、はッ。驚くな、御馳走するぜ!」
支那服は筋張った顔をてらてらさせて笑った。「若いの! よく寝ていたな。赤犬だ。頬べたが千切れるほど旨いぞ!」
「よう、出来た。誰れが料理《りょうる》んだ。支那服、貴様の腕前を見せろよ!」
逞くましい体格の黒眼鏡が、濡板と、研ぎすました短刀をひっ提げて這入って来た。そして抛り出した濡板の上に、短刀を突っ立てた。
「馬鹿! 貴様だよ」支那服が罵り返えした。だが、親しい間柄だと見えて、
「怖気づいたか」
「馬鹿ぬかせ!」
と、二つ三つ言い争った揚句、支那服が濡板の上に犬をひきずり上げた。ふと、黒眼鏡が、若者に気づいて、
「よう、起きたな。何処から流れた」と、親しみ深い笑いを見せた。
「え、奉天から。どうかお願いいたします」彼は柔順に頭を下げた。
「ほ、腹が減ったろう。今に腹一杯喰わすぞ!」
「え、どうぞ」
「出来上がるまで、上って休んでいなよ」
もうこの時、鮮かな支那服の短刀で動脈を切り開かれた濡板の犬は、まるで洗濯物のように胴なかを揉みしぼられていた。赤い生血[#「赤い生血」に「×」の傍記]が、小気味よく切口から溢れ奔って、それが濡板を染めて、五寸四方位の大きさに掘り抜かれた穴に流れ込んでいた。馴れ切ったものだ!
「どうだ。小気味よく流れ出すじゃねえか。赤い生血[#「赤い生血」に「×」の傍記]は気味のいいもんだな」
支那服が、うっとりした眼で、血のついた手を毛だらけにしながら、犬の胴を揉み抜いた。
「うむ。生血だぞ。その度胸で呑み干しちゃあ!」
血がすっかり絞り取られると、犬はぐったりと濡板の上に伸びて、毛並すらも青ばんでゆくように感ぜられた。白い眼をむいて、黒ずんだ昆布の裳《ひだ》を思わすようなギサついた口唇の横から、撲殺される刹那に、自分の歯で[#「歯で」に「×」の傍記]食いちぎったらしい血まみれの舌[#「血まみれの舌」に「×」の傍記]を、だらりと意気地なく吐き出していた。
水で手と短刀を洗い清めると、垂れさがって来る袖をまくり上げて、支那服が短刀の鋭い刃さきをずぶりと犬の顎に差し込むと、その握った柄を力一杯に、しかも見事な手つきで尻のあたりまで切りさげておいて、その刃を逆に巧妙に使い分けて皮膚と肉のなかに差しいれて、見る見るうちに、一匹の野犬を血だらけの肉と皺くちゃな一枚の毛皮に引き剥がしてしまった。
短刀が血糊をきって、再び閃めくと、腹部に一筋いれられた切目が、ぶくッと内側から押し破れて、一気に********************溢れるように犬の投げ出された四肢の間一杯に流れ出た。と、支那服の手が、その溢れ出た臓腑をかき分けて、胸骨の間に辷り込んで、二三度胸壁を指さきで抉ぐると、綺麗に二つの肺臓がはがれて、肝臓や胃袋などと一緒くたに濡板の上に掻き出された。そして大腸をたぐって、その最後の部分に刃がはいると、見事に肛門から切断されて、一抱えほどの臓腑が、ずるずると濡板を辷って、血を絞り捨てた同じ穴へ雑作もなく落こってしまった。その上に、支那服が砂を後足でかぶせてしまうと、もうすっかり食慾を唆る肉塊以外の何物でもなかった。
大腿部の関節に、短刀の刃が食い込んで、骨と刃物の音が軋むと、ぼろりと訳もなく肢が完全に離れた。ここまで一気に、見事な冴えを短刀の刃さきに見せて、料理つづけて来た支那服が、その肢を黒眼鏡に投げつけると、
「おい! 骨をはずせよ!」と、始めて怒鳴った。
「よし、手伝おう」こう叫ぶと黒眼鏡は、始めて支那服の使い動かす刃物から眼を反らした。そして『ふうーッ』と、感嘆の吐息をついた。虱をつぶした男と、大連から来た青年が、水を汲んだり、薪を拾い集めたりしていた。
またしても、近所中の子供が、木の枝によじ、窓にぶらさがって、あるいはドア一杯に押し寄せて、好奇心に燃える眼を瞠って、この野人達の獰猛な料理に片唾をのんでいた。
「うるさい!」
ふいと、出し抜けに支那服がこう叫ぶと、叩き切った犬の首を、子供の群に力一杯投げつけた。
「わあッ!」
子供たちは、一目散に逃げ散った。そして臆病そうに、この光景を遠巻きにした。
「犬殺し」
と、口々に罵りつづけていたが、やがてその怒罵が「お坊さんだ! お坊さんだ!」と、囁き声にかわると、安心しきって、またしても子供の群が、坊主と一緒にドアに溢れ込んだ。坊主が、そこに現れる前に、癇癪の方がさき走って来たような具合に、坊主はその無精たらしい面をドアに覗けないうちから、
「無茶だ。無茶だ。
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