まるで畜生道だ!」と、喚めき込んで来た。
「出て行け! 出て行け! 出て行って貰おう。お前たちを一刻もここにおいておく訳には参らぬ」
お坊さんは劇しい逆上で、息切れがしてしょうがないように、眼と鼻と口で一緒くたに息を吸い込んだ。
「ふ、ふん……」
支那服がお坊さんの袖の下でくすりと笑った。
「まるで餓鬼畜生だ。飼犬を殺して、あろうことか、この尊い仏地を穢して煮て喰おうというのだ。浅間しい畜生道の仕業だ。お前等のような堕地獄の徒輩《やから》は一時も、ここに置く訳には行かん!」
黙って骨をはずしていた黒眼鏡が、
「喧ましいわ! 糞たれ坊主!」と、ふいに喚めき唸めいたかと思うと、握っていた骨を土間に叩きつけた。「糞、豚小屋みたいな空屋に俺たちを叩き込んで置いて、手前は寄附を強請《ゆす》って世の中の人間を瞞しこんでいるんじあねえか。利いた風な口を利くねえ!」
「よし。貴様、よく覚えていろ! このわしの手に仕末ができなければ、ちゃんと警官がある。きっと追払ってくれる。追い出さずに我慢がなるものか!」
「おお! やって見ろ! 野良犬の替わりに、こんどは手前の番だ! 濡板に這いつくばって後悔するな」
血だらけの短刀が、支那服の手からさっと閃めいて、壁の腰板をぐさっと突通した。坊主はぴょこっと頭をかがめたかと思うと、そのまま逃げ出してしまった。後も見ずに!
坊主は、その後再び無精髭を覗けなかった。
酒場《バア》の主人は『赤』であるのか『白』であるのか、まるで見当がつかなかった。商売でさえあれば、一枚五厘にもつかない銅幣《ドンペイ》を五枚も投げ出せばそれで充分なスープを、たった一杯だけしか啜らないお客であっても、彼は因業な眼尻を細めて、にこついた。
大連から歩いて来たという男は、ロシヤ人をさえ見れば、女の臀に見惚れるように、その憂鬱な瞳に、憬がれの閃めきをちらつかせた。
彼は大連から飲まず喰わずに歩きとばして来て、その惨憺たる苦労にも懲りずに、まだこれから、地図だけで見ても、牛の鞣皮《なめしがわ》みたいに茫漠として見当もつかないロシヤという国へ線路伝いに歩きかねない意気込をもっていた。彼はこの二三日炎天の乾干みたいになって街中を歩き飛ばしていたが、何処でどう捜し求めて来たのか『カルバス』の行商をやっていたが、その売り上げの全部はこの赧顔の強慾な酒場ではたいてしまうのだった。
また彼はどこかで、いつ習い覚えて来たのか知らないが、『ボルシェビキイ』だの『カリーニン』だの『ブハリン』だの、または『イリッチ・レエニン』だの、それから『ハラショ』に『スパシーバ』ぐらいの露西亜語を、支那語と一緒くたに使いまくって、得体の知れない気焔を、誰れかれの差別なく、強慾な主人をでも、生れ落ちた時から馬小舎の悪臭から抜け切ったことのないような馭者、また何処でどう一日一日を喰って行くのか、まるで見当のつかないような素足の露西亜人をよく掴まえては吹っかけて、『ボルシェビキーは|好き《ハラショ》』だの『帝政派は|嫌いだ《ネ・ハラショ》』だのと、まるで鶏の尻から臓腑をひき出すような手付で、無我夢中で興奮していた。
露西亜人たちは、その野放図もない胴体で、ちょっとばかり力を入れれば、押し潰れそうな手製の貧弱なテーブルを股の中に抱き込んで、しかも雀の涙ほどのウォツカの杯《グラス》を見つめながら、この道化者の気狂いじみた興奮を猫脊に微笑んでいるのだった。そして彼にはそういう怪物みたいな露助が、一言の反対もなく彼の気焔に微笑んでいてくれることが、何よりも嬉しいと見えて、それだけでもう充分に有頂天になれて底抜けた興奮に駆り立てられずにはいなかったのだ。
『大連』は全く交尾期《さかり》のついた馬みたいに荷馬車を蹴飛ばして、シベリヤの曠野を突走りかねない量見を抱いているらしかった。それはまるで途方もない心掛けだ!
若者はこの『大連』がそういう途徹もない量見と、気狂い染みた情熱をもっていようとは夢にも知らなかった。
第一大連は、若者が豚小舎みたいな宿泊所に辿りついた時に、虱を潰していた男が、痴呆症みたいに二日三晩も寝通したと言ったし、その上支那服が野犬を料理《りょう》る時に、彼は憂鬱に黙りこんで、水汲みにぼい使われていながら不服そうな面も出来なかった。それに暇さえあると、誰れの話にも割り込もうとはせずに、無口な面構えで寝転んでばかりいた。
其彼に、こんな気狂じみた情熱があろうとは! 若者は夢にも知らなかったのだ。
黒眼鏡が酔いつぶれる時に、きまってあげる『オダ』に依れば、彼はどうにもしようのないやくざ者で、人の女房と姦通して、おまけに亭主の頭の鉢を金テコで打破って、無期徒刑を喰ったのだが、御大典のおかげで、二度と出られる筈のなかったこの社会に舞い戻って来たという
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