札つきの『金スジ』だった。それにまだ懲りずに、彼奴はそのやくざを自慢の種にして、この人生を金テコでぶちのめすような滅茶な調子で、押しまくって生きようとするのだ!

 その日は暑かった。太陽がカッと照らしつけている表へ、女の毛を投げ出せば『じじッ』と燃え上ってしまいはしないかと思われるほどだった。
 若者は何処をほうついても仕事がなかった。それで彼は飢え死する覚悟を決めたような悲痛さで、癇癪腹をかかえて宿泊所に舞い戻ってはね転がった。すると、時計の直しが見つからないで剛腹をかかえ込んだ、糜《ただ》れた脂っぽい眼付の男も、同じように樫の木のように固たそうな脛を投げ出して寝転んでいた。
 そうだ。若者が流れ込んだ時に、この虱を潰していた男は時計屋だった。
 この男は時計の修繕を拾いながら、それで世界を流して歩こうと云う、また滅相もない野望をもっているのだ。この時計屋の話によれば、可愛いい女房が、のびたうどん[#「うどん」に傍点]みたいになって、あの世へくたばった日から、店を畳んでしまって、その途徹もない野心を、学生鞄のなかにネジ廻しや、人形の靴みたいな金鎚と一緒くたに納い込んで、もう五年この方流浪しているのだと云う――。この男のその気持はまるで解らない。支那服は雑作もなく(なあに、女房の死霊に、魂をあの世へかッさらわれたのさ。それでフヌけた訳さ)と、簡単に片付けたが、或いはそうかも知れない。
 若者が荷厄介な古行李同然の調子で、自分の体をやけ糞に投げ出すと、びょこッと時計屋が折れ釘のように、起きあがって手を伸ばした。
「若いの! 三銭ばかりないか。腹が減ってしようがないんだ」抜毛のように頼りない声を出した。
「三銭どころか。この通りさ」若者は両手をはたいて見せた。
「そうか」
 折れ釘はまたそのまま倒れた。
 そしてそれっきりで二人がうとうととしかかった時、絞め損った鶏を飛ばしたような消魂《けたたま》しさで、引き裂かれるような悲鳴が、耳のつけ根で爆発した。同時に、若者と時計屋がはね起きた。
 すると、どうだ! 短袴子《タンクワツ》の赤い腰紐を引き※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]られたままで、ぐるりと羽二重餅のような*******修理婦が、そこら中に糸巻きや針や鋏などを一面に投げ散らして、あがき喚めきたてながら、***の黒眼鏡に****************――それはまるで一秒間と***********さであった。
「いやあッ!」と、魂をさらわれて、豆腐粕みたいにフヌケ切った時計屋でさえも、脂だらけの、はっきり見分けのつきそうもない眼玉を、南瓜頭と一緒くたに、樫の木みたいにごつごつした股倉につッ込んでしまった位だ。
 若者はただ、火花のようにカッとした。それでそのまま、焼火箸に尻餅をついたような撥ね上がりかたで、闘犬みたいな唸り声をたてて黒眼鏡に夢中で飛びかかった。それまではよかったが「うぬ!」と、相手が短かく喚めいたと同時に、彼はドアの外へ右から左にそのまま吹ッ飛んで、雑草のなかに********ぶざまな格好で丸まってしまった。そして気がついた時、若者は焼火箸を尻の下に敷いた時よりも、もっと素迅い動作と、地球の外へ吹ッ飛ぶような覚悟で遁げ出した。一体どうしたというのだ!
 正念寺の門前には、露西亜の酒場があることに変りはない。
 だが、今日という今日こそ『大連』は、カルバスの元も子もすっかり綺麗薩張りと、ウォツカの酔いとひっかえてぐでんぐでんに酔払っていた。
「タワリシチ!」こう怒鳴ると、脂っぽい針松の木椅子を蹴とばして、彼は鉄砲玉のように吹っ飛んで行く若者を、かっきりと釘抜きみたいに抱き留めてしまった。
「飲め! タワリシチ! 飲め!」
 彼は漬菜のように度肝を抜かれた若者を、わ、は、はッ、わ、は、はッ! と牛の舌みたいな口唇を開いて笑い崩れている豚の尻みたいに薄汚いロシヤ人の群のなかに突き飛ばした。
「|日本人よろしい《ヤポンスキイ・ハラショ》!」
「ボルシェビイキ、ハラショウ!」
 その薄汚いロシヤ人が、一斉に手を求めた。若者はこの毛だらけの、馬の草鞋《わらじ》みたいな、途方もなくでっかい[#「でっかい」に傍点]無数の掌の包囲に、すっかり面喰ってしまった。
 大連はもう仕末におえない程酔払っていた。
「飲め。畜生! 飲め。俺は自由を愛するんだ。俺は自由の国ソビエット・ロシヤを誰よりも愛するんだ。糞! いいか。よく聞け、俺は。俺はだ。家風呂敷みたいなロシヤで、自由に背伸びをして生きたいんだ。いいか。さあ、若いの飲むんだ!」
 若者はすっかり煙に巻かれてしまった。が、また彼奴は彼奴で、性根の据らない小盗人みたいに、たったいま[#「たったいま」に傍点]はじける程に蹴とばされた睾丸のことも、鉄砲玉のように遁げ出したこと
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