ヤと楡の木立が自然のままに生い育って、その樹間はほの暗いほどの雑草に埋れていた。本堂に通じる路だけが、それでも白く掃き清められていた。
若者は二三歩よろめいて行ったが、ふと突然に立ち止った。ここにまで裸体の苦力が侵入して来て、木影の雑草のなかに、鯖みたいな物凄い人間の腹が無数に映ったからである。彼は感じ深い面持で、そのいぎたない風情を眺めた。そして無料宿泊所が、自分たち同国人にのみしか与えられない恩恵を、阿弥陀如来の広大無辺の教義に民族的な息窒りをすら感じながら、本堂脇の玄関に歩いて行った。
「ごめん下さい」と、彼は襖の端に投げ出された毛脛を眺めながら、二声ばかり呼んだ。すると泡喰いながら、毛脛がぴょこッと縮むと、白い腰巻一つの坊主が頭から這い出して来た。
「お世話になりたいと存じますが……」
無精髭の伸びた坊主が、迂散臭い眼付きで、若者の頭のさきから靴のさきまで眺め上げ、眺めおろした。
「何処から来た?」
坊主は木を折るように怒鳴った。
「は、奉天から」
「歩いてか?」
「え……」
「そこに帳面と硯があるので、原籍と姓名を書きとめておいて、向うの長屋で休むといい」
坊主は面倒臭く言葉半分に言い捨てて、とっとと奥へ戻ってしまった。
『お腹が減っているんですが、一口……』と思ったが、もう追いつかなかった。若者はぼんやり気の弛むのを感じた。
宿泊所と云っても、それは名ばかりのもので、貸家づくりの八畳一間きりの長屋だった。何んの目的のために、こんな貸家を宿泊所に潰したのであるか、その坊主の魂胆は言わずと知れている! 窓ガラスは破れ放題だし、畳はぼこぼこにほぐれていた。ペンキの剥げ落ちたドアに通じる路だけが、どうにか路らしく踏みにじられてある以外は、雑草が跳梁するままだった。恰もそれは雑草に埋れた破家《あばらや》の感じで、得体の知れない蔓草に窓も壁も蔽われて、更にこの宿泊所の陰鬱な零落者《おちぶれもの》の蔭を濃くするために、葉の繁ったアカシヤの木立が深々と枝を垂れていた。
若者は把手《ハンドル》の壊れたドアを開けて、薄苔の生えた土間に入って行った。忽ち蠅の群が、かすかな唸り声をあげて襲いかかった。
「ごめん下さい」
素裸の男が黙って顔をあげた。髭の濃い、だが穏かな面構の四十男で、ひどいトラホームを患っていると見えて、赤く爛れた脂っぽい眼付で、股の間に拡げた猿又の虱を潰していた。
「何処から来た。兄イ!」
その男は無表情な口のきき方をした。
「ええ、奉天から……」
「歩いてか?」
「ええ……」
男は再び無感動な動作で、虱を潰し始めた。が、ふと、「その兄イも一昨日大連から歩いて来たんだ」と、言って頤をしゃくって見せた。「二日三晩まるで死屍《しぶと》みたいに寝通しなんだ」
そう云ってまた、彼は無感動な顔付をした。その男の肱の向うに、その通りの青年が寝汗をかいて腹這ったままで眠むり落ちていた。黒々と日焼けのした顔は蒼白いむくれが来ていた。もういい加減に叩き起さなければ!
若者はごろりと横になった。眼の凹《へこ》むのを覚えた。
「飯は食ったか?」また男が問いかけた。
「いいえ、昨日から……」若者は情けない表情をした。
「そうか。そこの新聞紙をめくって見ろよ。胡瓜と黒パンがあらあな」
若者は咽喉から手が出るほど、飛びつきたかったが、もじもじせずにはいられなかった。――もっと適切に言うならば、この男の親切な言葉に対して、何かこう精一杯な、感謝の心持の溢れた言葉だけででも報いたかったからだ。
「遠慮するな。困った時はお互だよ!」
彼は相変らず無感動な表情で虱を殺しつづけた。
「有難うよ!」
若者は訳の判らない感動で、反って無技巧な言葉を単純な感激で押し出してしまった。新聞紙をめくって黒パンを手にした。香ばしい匂いがぷんと来る。――ざらついてはいるが、心持ねばついた福よかな、その感触は一体何日ぶりに経験する快よさであったろうか! 若者はともすると、瞼に溢れて来る涙を危ぶみながら黒パンの塊を二つに引き裂いて、ごくんと唾液を胸元深くのみこんだ。そして次の瞬間には、餓鬼のように貪りついていた。
若者が眼を醒したのは、翌日の夕方であった。一昼夜ぶっ通しに眠むり通して、まるで魂を置き忘れた人間のように、ふぬけた格好で起きあがった。何かの悲鳴を聞いたようにも、またそうでないようにも思われた。
ドアが忙しそうに開いたり、閉ったりした。まだ若者の知らなかった支那服の男、それに逞しい体格の黒眼鏡の男、虱をひねり潰していた昨日の男、それから大連から歩いて来たと云われる青年の四人が、それぞれ忙しく水を汲み込んだり、短刀を研いだり、子供を追い散らすために、怒鳴ったり喚めいたりしていた。
『何事だろうか』若者は不審に思った。生欠伸《なまあくび》
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