る方が好い――と。
 そこで俺は紙片に、時計の画をかいて、手真似で一昼夜とまって行くという意味を女に通じた。その意味が解ったのか、女は高い歓声をあげて俺に抱きついた。
 女は俺の財布から七円とった。後では大洋《タイヤン》で二円と少しばかりの小銭が残っているばかりであったが俺は鬱血を一時に切り開いた時のような晴々しさを覚えた。この北満の奥地で運命を試すことは如何にも痛快なことではないか――俺は窓のブラインドをはねあげた。と、緑の曠野は血のような落日を浴びていた。風の動く影もない、粛殺たる光景である。俺の魂は落日の曠野を目蒐《めが》けて飛躍した。どこかで豚の啼き声がした。
 表には、ここの女たちが男を誘惑する淫《みだ》らな嬌声が聞えていた。その嬌声に混って、胡弓の音がした。俺は何故ともなしにその弾き手を盲目の支那人であろうと思った。女は茶をいれた。
 熱い、甘い茶を唇で吹きながらスプーンで俺に含ますのである。ひとりで自由に呑もうとすると、女は俺の手を軽く遮えぎった。そのやさしい手つきに、俺はふと母親の慈愛を感じた。
 俺は生みの母親を知らなかった。――
 お牧婆は、三十過ぎても子供がなかった。人知れず彼女は子持地蔵に願をかけていた。その時分は、まだ若く今のように皺苦茶な梅干婆ではなかった。
 彼女はある雪の晩に、貰い風呂から帰る途で、暗い地蔵堂の縁の下に子供の泣き声をきいて、これはテッキリ地蔵様の御利益《ごりやく》に違いないと思った。そこで提灯の明りと子供の声をたよりにのぞいてみると、すぐ足の下に蜘蛛《くも》の巣を被って、若い髪の乱れた女がねんねこ[#「ねんねこ」に傍点]に子供を負《おぶ》って打伏していた。流石《さすが》におまき婆も顔色を変えて、
 ――これ、お女中よ、これお女中よ――
 と、我れにもなく声をはずませた。が、女はその声にふり起きもしなかった。背中の子供が人の気配に、火のように泣き出した。おまき婆は堪まりかねて、子供のくるまったねんねこ[#「ねんねこ」に傍点]を擦ろうとして女の頸に触った。おまき婆はぞっと縮み上った! 女が氷のように冷たくなっていたからだ。
 背中の子は俺だった。どうして俺が助かったものか? 母親が凍死したのであるとすれば、俺も一緒に死んでいなければならない筈だが…………
 俺はお牧を母として育った。お牧の亭主は幸四郎という百姓だった。
 俺が物心ついた頃、村の餓鬼が俺を「乞食の子」と呼んだ。俺は何よりもそれが悲しかった。泣いてその訳を母にせがんだ。母は隠しおえるものでないと知ってか、何時もとは違った正しい容子《ようす》で、
 お前のおふくろは確かに地蔵堂の縁の下で死んだのじゃが、どうしてどうして乞食どころかえ、放疲れこそはあったが若けえ立派な嫁御《よめご》であったぞえ。着ているもんでも、こがいな田舎では見られない綺麗な衣裳をつけえとったがのう。どこかの旦那衆の嫁御に違えねえのだが、何処の誰れであるかどがいしても知れなんだ。さぞ親御や旦那は捜していられるであろうが、それにお前という立派な男の子もあったのじゃけに――
 と涙ながらに打ち明けた。その時から母がおまき婆になった。父と思っていたのはアカの他人の百姓であった。
 俺はひがんだひねくれ者になつた。俺は愛のない孤児だと悟ったからだ! おまき婆は育て甲斐がないと失望した。幸四郎は飯の喰い方が悪いとか、働かないとか云って、事ごとに殴りつけた。
 俺は愛に渇した。十六で五つも年上の娘と恋に落ちた。そして村一統の指弾の的標《まと》になった。
 ――血は争えないものだ。お前のおふくろもお前と同じに肩あげのとれない内から不義に落ちて、お前を負ってこの村へ流れて来て地蔵堂の縁の下に野倒死《のたれじ》にしたんじゃ! 男の尻を追って行く途中か、それとも不義のお前という餓鬼をヒッて家に居たたまらず逃げ出した果てが、この地蔵堂の野倒死にか、どっちかまあ解らんが、子が子なら親も親じゃろうって――
 お牧婆は口を極めて俺を罵《ののし》った。俺は遂に十七の歳に村を捨てて遁げ出した。放浪がそれから始まった。だが俺はまだ母親のように野倒死にはしない。――世の中の人間は、誰れでも皆かならず二つの愛を所有している。父の愛と母の愛だ! 俺もついにそれなしには生きていられない寂しさを思う。
 俺の母親は中国の僻村《へきそん》で地蔵堂の縁の下に死んだが、父親はまだ何処かに生きて居るべき筈だ。おまき婆が言うように不義な恋から生みつけられた俺にしろ、父は父であるべき筈だ。俺は常に父親を思う――だが父親は俺を子と知らずに、世の中の人達と同じく俺を虐げてはいまいか。そして俺が考えるように父親は俺から遠く離れたところに居るのではなく、案外に俺の間近かで交渉のある人であるかも知れない――こう考えると遂
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