に俺は人を憎めなくなる。人を憎もうとすればその顔が父になり、また反対に愛そうとする顔は冷酷な他人の顔に早変りする。実に奇怪な錯覚である。俺がテロリストにもなれず、また人道主義者にもなれないのはこのためだ! 俺は常に、憎むべき者を憎み得ず、また愛すべきものを愛し得ない悩みに悶える。この悩みがまた常に錯覚を伴う――。
――俺は女を抱いて、しみじみ母親の愛を感じていた。……
言葉を知らない女は、ただ笑って、俺を行為で愛撫するより仕方がなかったのだろう。それが俺に更に、母親の慈愛を錯覚せしめた。俺は夢のように三日三夜を女の懐の中で暮らした。
三日目の朝、女は俺の財布を振って外を指した。財布の底はコトリとも音をたてなかった。俺は悲しい眼差《まなざし》で女をみた。が、女は笑おうともしなかった。俺は遂に、うまうまと欺かれた俺を知った。泣きも泣けもしない気持であった。
窓には、曠原のバラ色の朝焼が映っていた。女の寝不足な、白粉落ちのした顔は、俺にへドを催させた。年増女に不似合な緑色のリボン、水色の洋服、どうみたって淫売婦だ! 俺はこう云う女に三日三晩も抱きつかれていい気になって母親の夢をみていたことを悔いた。畜生! 俺はこう心に叫ぶと、女を尻眼にかけて淫売宿をオン出た。
眼がさめると夕暮であつた。五月というのに薄寒かった。
俺は支那街の、薄汚い豚の骨や硝子《ガラス》のカケラの転がった空地に寝込んでいたのだ。さんざ歩きとばしたことだけが思い出せた。みると俺の周囲に得体の知れない薄気味の悪い支那人が輪になって、何か声高く饒舌《しゃべ》っていた。
――安心しろ、まだ野倒死はしないよ――俺はこう思って、笑った。支邦人の輪が遠のいた。腹の空いたことが解った。考えてみると淫売宿で三日三晩ろくすっぽ飯も喰っていなかった。――どうしよう――と、思ったが、扨《さ》てどうもすることが出来ない。言葉の解らない支那人を眺めて、つくづく悄気切《しょげき》ったものだ。腹の空いた真似をして、膝をたたいてみせたりすぼめてみせたりすると、支那人は手を叩いて笑った。
気がつくと、空地の向うに五六人の苦力《クーリー》がエンコして何か喰っていた。俺は立ちあがって、そこに行った。辮髪をトグロのように巻た不潔な野郎が、大きなマントウを頬張っているのだ。つい俺もその旨そうに喰っている様子に唾が出て、黙って黄色ぽいマントウに汚たない布片をもたげて手を出した。すると前にいた苦力が、獰猛《どうもう》な獣の吼《ほえ》るような叫び声を出して俺の手を払い退けた。
そうやられると、俺も無理に手を出しかねた。黙って佇んだ。苦力達は俺の顔を睨めつけて、何かペチャクチャと囁き合った。
やがて彼等は食器を片附けて、小屋のような房子《フワンズ》に引きあげた。俺もその後について行った。彼等と一緒に働こうと思ったのだ。俺が入ると、暗い土間のところでアバタ面の一際獰猛な苦力頭が、――何んだ! 何者だ――というように眼をむいて叫んだ。俺はびっくりして、一足二足あとへすさったが、また考え直してにやにや笑いかけて図太く土間に進んだ。俺はスコップで穴を掘る真似をして、働かして貰い度いものだという意味を通じた。が、苦力頭は俺の肩を掴かんで、外を指さした。出て行けというのだ。しかし俺は出て行くところはない。かぶりを振ってそこの隅にへタバリ付いた。
苦力頭は仕方がないとでも云うような顔で、自分の腰掛に腰を据えて薄暗いランプの灯で、ブリキの杯で酒を嘗《な》めはじめた。他の苦力達が、俺を不思議そうに寝床の中から凝視《みつ》めた。
あくる朝、鶏に棚の上から糞をヒッかけられて眼を覚ました。苦力頭が、棒切れで豚のように寝込んでいる苦力どもを突き起して廻った。あちらこちらで大きな欠伸《あくび》がして、どやどやと皆起き出た。
苦力頭の女房らしいビンツケで髪を固めているような、不格好な女がマントウやら葱《ねぎ》やら唐黍《とうきび》の粥《かゆ》のようなものを土器《かわらけ》のような容れものに盛って、五分板の上に膳立てをしていた。そして頻《しき》りに俺を睨みつけた。
苦力頭は、鼻もヒッカケない面付《つらつき》で俺を冷たく無視した。苦力達がさんざ朝飯を食い始めたが、誰も俺にマントウの一片《ひとかけ》らも突き出そうとしなかった。俺は喰えというまで手を出すまいと覚悟した。
皆がシャベルやツルをもって稼ぎに出だしたので、俺も一本担いで後に続いた。誰も何んとも言わなかった。
仕事は道路のネボリであった。俺はシャツ一枚になってスコを振った。腹が減って眠が眩みそうであったが、一日の我慢だと思ってヤケに精を出した。苦力達は俺の仕事に驚いた。まさか日本人に土方という稼業はあるまいと思ったに違いない。支那に来ている日本人は皆偉そうぶって
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