って、眼をつむった。――
 眼をひらくと、女はうつ伏して嗚咽《おえつ》していた。俺は何とも云えない可憐な気持に打たれた。女を抱き起して、唇を与えた。
 女は涙の眼を微笑んで、………………。俺は淫売の稼業を思った。
 内地である女郎屋へあがった時、俺の対手《あいて》に出た妓《おんな》は馬鹿に醜かった。俺はヤケを起してその女に床をつけなかった。と、ヤリテ婆が出て来て、
 ――あんたはん、この妓《こ》に床をつけてやっておくんなはれ、でないと女郎屋の規則としてお金とる訳に行きませんよって――
 と、泣かんばかりで妓を庇護したことがある。そのかたわらで、醜い顔の女が、寒むそうに肩をすぼめて泣いた。
 俺はそれを思った。俺はかつてゴム靴の工場で働いたことがある。一日中、重い型を、ボイラーの中に抛り込んだりひきずり出したりして一分間の油も売らず正直に働いた。そしてその上に、馘《くび》になるまいと思ってどれだけ監督に媚びへつらったのだったか! 淫売婦と俺のシミタレ根性との間にどれだけ差違があろう。俺も喰わんがためには人一倍に働いて、しかもその上に媚を売っている。浅薄なる者よ――俺の心が叫んだ。
 俺はよけようとした女の膝を、心よく受けた。俺は快楽に酔った。この快楽を放浪者に与える淫売婦もまた尊い犠牲者であると感じた。女は………………を、………………に隠した。
 莨《たばこ》に火をつけた。女は俺の顔をみて、にやりと笑った。俺は女の無邪気な皮肉を眼の色に感じた。
 ドアをノックする音がした。女は驚いてベットの敷布を体に巻きつけると、急いでドアの鍵をはずした。猶太《ユダヤ》の赤い顔のおかみが、女にカードを渡した。そして何か言った。女はそれを俺に示して、テーブルの上の銅貨を拾ってみせた。
 俺は皺ばんだ紙幣をベットの上にひろげて、女にいいだけ取れと手真似した。
 女は時計を描いて、時間表をつくって二時間を示すと、紙幣の中から二円とった。そしてその金をおかみのポケットにねじ込んだ。猿のような赧ら顔のおかみは、にこつき[#「にこつき」に傍点]もせずに、ドアを閉めて去った。女は敷布をはずして、水色の服に着更えると、乱れ髪を繕った。
 俺はもう出て行かなければならないことを悟った。――だが俺には出て行くところがなかった。ここを無理に出てみたところで、不潔な見知らぬ街と、言葉の通じない薄汚ない支那人と亡命の露西亜人に出喰わすだけのことだ。言葉ができない俺には宿屋は勿論、ろくすっぽ一椀の飯にもありつけないことは解っている。俺は今朝、ここの停車場に吐き出されたばかりなのだ。的《あて》もないのに盲滅法に歩きとばして脚の疲れた儘に、とある倉庫の空地をみつけて、つい小半日もへタバッテいる間に偶然この女を見付けた訳だ。
 ――無鉄砲な男よ――
 ふとこんな気がした。言葉も解らない、そして何の的のある訳でもないのに、何故こういう土地に乱暴に飛び出して来たかと思った。が俺にも無論その理由が解らなかった。
 ――ただ気の向くままに――
 おおそうだ。気の向くままに放浪さえしていれば、俺には希望があった、光明があった。放浪をやめて、一つ土地に一つ仕事にものの半年も辛抱することが出来ないのが、俺の性分であった。人にコキ使われて、自己の魂を売ることが俺には南京虫のように厭だった。人の顔色をみ、人の気持を考えて、しかも心にもない媚を売って働かなければならないことは、俺にはどうしても辛抱のならないことだった。だが、しかし不幸なる事に人間は霞《かすみ》を喰って生きる術《すべ》がない。絶食したって三日と続かない。とどのつまりは、やはり人にコキ使って貰って生きなければならない勘定になる。他人をコキ使おうッて奴には虫の好く野郎は一匹だってない。そこでまた俺は放浪する。食うに困るとまた就職する。放浪する、就職する、放浪する、就職する………無限の連鎖だ!
 ――生きるためには食わなければならぬ。食うためには人に使われなければならぬ。それが労働者の運命だ。どこの国へ行こうとも、このことだけは間違いッこのないことだ。お前ももういい加減に放浪をやめて、一つ土地で一つ仕事に辛抱しろ。どこまで藻掻《もが》いても同じことだ――
 と、友達の一人は忠告した、俺もそうだと思った。――だがしかし俺にはその我慢がない。悲しい不幸な病である。俺はいつかこの病気で放浪のはてに野倒《のた》れるに違いない。

 ふと、気がついてみると、女は固い木椅子に腰かけていた。言葉で云っても解らないので、俺が出て行くのを静かに待っていたのであろう。俺は考えた。多くもありもしない金だ。どのみち今日一晩に費い果して明日から路頭に迷うのも、また二三日さきで路頭に迷うのも同じ結果だ。同じ運命に立つなら、寧《むし》ろ一日も早く捨身になって始末をつけ
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